縁起・空・互動
―関係論的身体観からみた「個体」と「全体」の再考
1.存在を「個」からではなく「関係」から捉える
人間は通常、一つの事物を、それ自体として独立して存在するものとして認識する。
一本の指は一本の指として存在し、一個の骨は一個の骨として存在し、一人の人間は一人の人間として存在する。このような認識は、日常生活を営む上では極めて有効である。
しかし、存在をより詳細に観察すると、一つの事物を他との関係から完全に切り離して成立させることは困難である。
仏教における(pratītyasamutpāda)は、この問題を考察する上で重要な視座を与える。
縁起は、単純に「すべてのものがつながっている」という意味に還元されるものではない。その根底には、ある事象が単独で成立するのではなく、一定の原因・条件によって成立するという条件性の思想がある。
即ち、「これがあるとき、かれがある。これが生ずることから、かれが生ずる。」という関係である。
この視点に立つならば、存在とは孤立した「点」としてのみ理解されるものではなく、無数の条件と関係によって成立する出来事として捉え直すことができる。
2.「大」と「小」は単独では成立しない
関係性は、物理的存在だけでなく、概念そのものにも認められる。
例えば、「大きい」という概念を考えてみる。「大きい」は、それ単独では意味を確定できない。比較対象となる「小さい」が存在することによって、初めて「大きい」という判断が成立する。
同様に、長い/短い、高い/低い、速い/遅い、明るい/暗いといった概念も、一方だけでは成立しにくい。
「短い」という概念は「長い」という可能性を背景として成立し、「長い」もまた「短い」との比較関係によって成立する。
したがって、一方が他方を規定すると同時に、他方もまた一方を規定する。
ここには、一方向的な因果関係とは異なる相互規定性が存在する。
3.親が子を生み、子が親を生む
同様の構造は、人間関係にも見い出すことができる。
一般には、親が子を生むと表現される。生物学的には当然その通りである。しかし、「親」という社会的・関係的存在について考えれば、別の側面が現れる。
一人の女性は、子どもが生まれることによって初めて、その子どもに対する「母」となる。一人の男性も同様に、子どもの存在によって「父」となる。
したがって関係論的には、親が子を成立させると同時に、子もまた親を「親」として成立させると言うことができる。
ここで重要なのは、どちらが先かという問題ではない。「親」「子」という存在規定そのものが、関係によって成立しているということである。
親だけでは「親」は成立しない。子だけでも「子」は成立しない。親―子という関係が成立することによって、親と子が同時に関係的存在として立ち現れる。
4.「幸/不幸」という相互規定
「幸福」と「不幸」についても同様の問題を考えることができる。
幸福という概念は、不幸という概念との対比によって意味を与えられている。
もし不幸という可能性が存在しなければ、「幸福」という言葉そのものが現在と同じ意味を持つとは限らない。
つまり、幸に縁りて不幸があり、不幸に縁りて幸がある。
ただし、ここで重要なのは「幸と不幸は同じものである」と主張することではない。両者が概念的に相互規定されているということである。
この観点からすると、「幸福だけを獲得し、不幸だけを完全に排除する」という発想そのものに、一つの矛盾が潜んでいる可能性がある。
幸福を強く規定するほど、それと対になる不幸もまた強く意識されるからである。
したがって問題は、「どうすれば幸福だけを獲得できるか」ではなく、「そもそも幸福/不幸という二項によって自己の存在を評価し続ける必要があるのか」という問いへ移行する。
5.自力と他力を分離できるのか
同じ問題は、人間の成果にも適用できる。
例えば、一人のアスリートが世界最高峰の競技大会で優勝したとする。その結果を、才能によるものか。努力によるものか。環境によるものか。運によるものかと分解することはできる。
しかし実際には、それらを完全に切り離すことは困難である。
才能が遺伝的要因を含むなら、その成立には両親や祖先が関与している。
努力できたのであれば、努力を可能にした身体、食物、住環境、教育環境、指導者、家族、競技施設、対戦相手などが存在する。
優れた指導者と出会ったことを「運」と呼ぶとしても、その出会いもまた社会的・歴史的条件の中で成立している。
したがって、本人の努力は本人だけによって成立しているのではない。しかし、本人が努力しなければ結果もまた成立しない。
ここでは「自力か、他力か」という二分法そのものが不十分となる。
成果とは、無数の条件が交差する地点において生起する関係的事象だからである。
6.縁起から「空」へ
この関係性の問題をさらに徹底すると、仏教思想における空(śūnyatā)という問題へ接続する。ただし、縁起と空は単純に同義ではない。
特に後代の大乗仏教・中観思想では、縁起するものには、それ自体だけで独立して成立する固定的な本質、すなわち自性がないという方向へ議論が展開された。
この意味における「空」は、何も存在しないという虚無を意味しない。
むしろ、存在するものは、他との関係や条件から完全に独立した固定的実体として存在するのではないという理解である。
したがって「空」は、存在の否定というより、存在の仕方についての問いなのである。
7.この関係論を身体へ導入する
以上の関係論を身体へ適用すると、身体の見え方は大きく変化する。
例えば、一個の指骨について考えてみる。解剖学上、その骨を一つの骨として取り出し、名称を与え、形態を記述することは可能である。しかし、生体内においてその骨は単独で存在しているわけではない。
隣接する骨との間に関節を形成し、靱帯によって結ばれ、筋・腱から力を受け、神経系による制御を受け、血管によって栄養を供給される。
更に、その指骨の位置や運動は、手根骨、橈骨、尺骨、上腕骨、肩甲骨、鎖骨、胸郭、脊柱……といった全身構造との関係から完全に切り離すことはできない。
したがって、一本の骨は、一本の骨として存在すると同時に、他の構造との関係によって身体の一部として存在しているのである。
8.「骨格」はどこに存在するのか
この問題をさらに進めると、「骨格」という存在そのものについて問い直すことができる。
骨格とは何か。身体からすべての骨を取り出し、それぞれの連結を解除すれば、そこに存在するのは多数の個別の骨である。それらが一定の位置関係を持ち、関節によって連結されることで、我々はそれを一つの骨格として認識する。
つまり骨格は、個々の骨だけに存在するのではない。個々の骨と骨との、「間」「結び」「位置関係」を含めて初めて成立する。
したがって身体構造を理解するためには、「何が存在するか」だけではなく、「何と何が、どのような関係にあるのか」を問わなければならない。
9.関係が運動する時――「互動」
ここから、身体運動におけるもう一つの概念が導かれる。互動である。
一つの骨が動く。しかし、その運動は一つの骨だけで完結しない。
一方が動けば、その関係にある他方にも運動が生じる。他方の運動は、さらに別の構造へ影響する。
この時身体運動は、AがBを一方的に動かすという単純な直線的モデルだけでは説明できない。
Aの運動がBとの関係を変え、Bの運動が再びAとの関係を変える。
即ち、身体は、部分が単独で動くのではなく、部分と部分が互いに関係を変化させながら動く。
この関係的運動を「互動」と捉えることができる。
10.「個体」から「関係体」へ
近代解剖学は、身体を詳細に分節することで大きな成果を上げてきた。
骨を分類し、筋を分類し、神経を分類し、臓器を分類する。この方法は不可欠である。
しかし、分けることによって理解された身体を、再び関係の中へ戻す作業もまた必要である。
骨を知るだけでは、骨格は分からない。筋を知るだけでは、運動は分からない。部分を知るだけでは、身体全体の運動は分からない。
なぜなら身体とは、単なる部品の集合ではなく、多数の部分が関係し、その関係そのものが絶えず変化する動的構造だからである。
したがって身体を「個体」としてのみ見るのではなく、「関係体」として捉える視点が必要になる。
11.縁起と互動
ここで、仏教思想における縁起と、身体運動における互動との接点が明確になる。勿論、両者は同一概念ではない。
縁起は仏教における存在・生成についての思想であり、互動は身体構造および身体運動を記述するための概念である。
しかし両者には、一つの存在・運動を、それ単独で完結したものとして捉えないという共通した視座がある。
縁起が、「存在は条件と関係の中で生起する」と見るなら、互動は、「運動は他の構造との関係の中で生起する」と見る。
したがって、縁起は「存在の関係性」を問い、互動は「運動の関係性」を問うと整理することができる。
12.「互」という思想
「互動」という語において重要なのは、「動」だけではない。むしろ、その前に置かれた、「互」である。
身体運動を考える時、人はしばしば「どこを動かすか」を問う。しかし互動の立場から問うべきなのは、何が、何と、どのように動き合うのかである。
ここでは運動主体は一つではない。一方が他方を動かし、他方もまた一方との関係を変化させる。
「互」とは、そのような一方向ではない関係性を示す言葉として理解することができる。
故に互動とは、単に「二つのものが動く」という意味ではない。関係そのものが運動することである。
結論――身体は「縁起する運動体」である
身体には、多数の骨がある。多数の関節がある。多数の筋がある。神経があり、内臓があり、血液があり、細胞がある。
しかし、それらをすべて列挙したとしても、それだけで「身体」を説明したことにはならない。
身体を身体たらしめているものは、個々の構造だけではなく、それらの間に成立している関係だからである。
そして身体が動くとは、その関係が固定されたまま部分だけが移動することではない。関係そのものが絶えず変化することによって、身体全体の運動が生起する。
ここに、縁起という思想と互動という身体観を接続して考察する可能性がある。
一個の骨は、一個の骨である。しかし同時に、一個の骨だけでは骨格にならない。
一人の人間は、一人の人間である。しかし同時に、一人だけで現在のその人間が成立したわけではない。
存在とは孤立ではなく、関係の中にある。運動もまた孤立ではなく、関係の中にある。
したがって、縁起とは、存在を「関係」から見ることであり、互動とは、身体を「関係する運動」から見ることである。
そしてこの二つを身体という場で重ねた時、身体とは、部分の集合ではない。関係が動き続ける、一つの全体であるという身体観が導かれるのである。
身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi
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