身体は部分の集合なのか

―還元主義的身体観と関係論的身体観

要旨

 人体は、骨、筋、関節、神経、血管、内臓、細胞など、多数の部分から構成される。近代医学・解剖学・生理学は、身体を部分へ分解し、それぞれの構造と機能を詳細に分析することによって大きな成果を上げてきた。

 しかし、「部分をすべて理解すれば身体全体を理解したことになるのか」という問いは、別に検討する必要がある。

 一個の骨は、他の骨との位置関係によって関節を形成する。筋は骨・腱・神経系との関係の中で作用する。呼吸は肺だけでは成立せず、胸郭、横隔膜、神経系、循環系、外界とのガス交換など、多数の条件を必要とする。さらに身体運動では、一つの部位の運動が他の部位との関係を変化させ、その関係変化が次の運動条件となる。

 したがって、生体において重要なのは「何が存在するか」だけではなく、「何と何が、どのような関係にあるか」である。

 本稿では、身体を部分へ分解して理解する還元主義的方法の有効性を認めつつ、それだけでは捉えにくい身体の関係性、組織化、階層性、全体性、動的相互作用について検討する。

 その上で、身体を「部分の集合」としてのみ捉えるのではなく、部分と部分の関係が絶えず変化し続ける動的構造として捉える「関係論的身体観」の可能性を論じる。

キーワード: 身体、還元主義、関係論、身体構造、全体性、運動、システム、相互作用、身体論


1.身体を分解すれば、身体は分かるのか

 人体を理解するために、人間は身体を分けてきた。骨。筋。関節。神経。血管。臓器。組織。細胞。さらに細胞を分子へ、分子を原子へと分析することもできる。この方法によって、人体について膨大な知識が獲得されてきた。
 したがって、身体を部分へ分けて研究すること自体を否定する理由はない。
 しかし、ここで一つの問いが生じる。身体を構成する部分をすべて知れば、「身体」を知ったことになるのだろうか。
 部分についての知識と、全体についての知識は同じなのか。これが本稿の出発点である。


2.還元主義とは何か

 還元主義(reductionism)という言葉には複数の意味があるが、本稿では主として、複雑な現象を、その構成要素へ分解し、より基礎的な要素の性質や法則から理解しようとする方法論という意味で使用する。
 例えば身体運動を考える時、どの筋が収縮したのか。どの関節が何度動いたのか。どの神経が活動したのかと分析する。これは極めて重要な研究方法である。
 複雑な現象をそのまま眺めているだけでは、何が起きているのか分からない。だから分ける。分けることによって、見えなかったものが見える。
 しかし、分けることで見えるものがある一方、分けることで消えるものもある。その一つが「関係」である。


3.一個の骨は、一個の骨として存在する

 例えば、大腿骨を考える。
 大腿骨は一個の骨として取り出すことができる。長さを測定できる。形態を記述できる。骨密度を測定できる。近位端、骨幹、遠位端を分類できる。これは大腿骨そのものについての重要な知識である。
 しかし、生体内における大腿骨は、孤立して存在しているわけではない。近位では寛骨と関係する。遠位では脛骨・膝蓋骨などと関係する。筋・腱・靱帯とも関係する。神経・血管とも関係する。そして身体運動の中では、骨盤、下腿、足部、脊柱などとの関係も絶えず変化する。
 したがって、大腿骨そのものを知ることと、生きた身体の中にある大腿骨を知ることは、同じではない。


4.関節は「骨」ではない

 この問題は関節を考えると分かりやすい。関節は、一個の骨の内部に存在するものではない。
 複数の骨が一定の位置関係をもち、その間に関節面、関節包、靱帯などの構造が成立することで関節が形成される。
 つまり関節は、一個の部分の中にあるのではなく、部分と部分の「間」に成立する。ここは重要である。
 身体には、「もの」だけではなく、「ものとものとの関係」が存在する。そして、その関係自体が身体機能を成立させている。


5.骨格はどこに存在するのか

 同じことを骨格について考えてみる。人体を構成する骨をすべて取り出し、床へばらばらに置いたとする。
 骨そのものは存在している。しかし、我々が生体で「骨格」と呼んでいる構造は失われている。
 なぜか。骨がなくなったからではない。骨と骨との関係が失われたからである。
 したがって、骨格=骨の総和とは言い切れない。より正確には、骨格とは、個々の骨と、それらの間に成立する位置・連結・関節などの関係によって構成される構造体であると考える必要がある。


6.「部分を足せば全体になる」のか

 数学的には、A+B+Cという加算によって総和を求めることができる。
 しかし、生体の全体性は単純加算だけでは説明できない場合がある。
 例えば、骨+骨+骨……だけでは、生体の骨格にはならない。
 重要なのは、それらがどのように配置され、どのように結ばれているかである。同じ部品が存在していても、配置関係が異なれば全体の機能は変化する。
 したがって、全体とは、部分の存在だけではなく、部分間の関係を含んだものとして考えなければならない。


7.筋肉も単独では機能しない

 筋についても同様である。一つの筋を取り出せば、起始。停止。形状。筋線維構成。生理学的特性などを研究できる。
 しかし、生体内で筋が力を発揮するためには、他の条件が必要になる。
 骨との関係。腱との関係。関節との関係。神経系との関係。拮抗筋・協働筋との関係。外部負荷との関係。身体位置との関係。
 したがって、筋の作用は、筋そのものの性質だけでは決まらない。身体のどの状態で、どの関節角度で、どのような運動課題の中で活動するかによって意味が変わる。


8.「この筋肉が、この動作をする」という説明

 解剖学では、「この筋は、この関節を屈曲させる」「この筋は、この関節を伸展させる」と作用を記述する。これは身体を学ぶうえで非常に有用である。
 しかし、実際の運動では、一つの筋だけが単独で働いて一つの動作を完成させることは少ない。
 歩く。走る。投げる。跳ぶ。立ち上がる。これらは複数の関節と多数の筋活動によって成立する。
 したがって、筋の解剖学的作用と、実際の全身運動における筋の役割を区別する必要がある。


9.部分の名前を知ることと、身体を知ること

 身体教育では、解剖学用語を多く知っていることが「身体を知っていること」と結びつけられる場合がある。
 大腿骨。腸腰筋。腹横筋。多裂筋。肩甲骨。胸椎。名称を知ることには意味がある。
 しかし、名称を知ることと、その構造が生体内でどのような関係にあるかを理解することは別である。
 さらに、構造を理解することと、その構造が実際にどのように動くかを理解することも別である。身体知には複数の階層が存在する。


10.身体を「部品」として見ることの限界

 身体を機械へ例えることがある。
 骨はフレーム。筋はモーター。関節はヒンジ。脳はコンピューター。
 こうした比喩は、複雑な身体を理解するために便利である。
 しかし、生体は単純な機械とは異なる。
 身体は成長する。学習する。疲労する。回復する。環境へ適応する。そして、一つの部分の状態変化が他の部分の働きへ影響する。
 したがって、部品を交換すれば同じ機能が再現される機械と、歴史をもち、適応し続ける生体を完全に同じモデルで捉えることには限界がある。


11.「脳が身体を動かす」という一方向モデル

 身体を部分化すると、脳 → 神経 → 筋 → 骨という一方向的な図式で運動を説明したくなる。勿論、中枢神経系から運動指令が送られることは身体運動において重要である。
 しかし実際の運動制御には、身体から中枢神経系へ戻る感覚情報も関与する。視覚。前庭感覚。固有感覚。皮膚感覚。さらに身体は外界から力を受ける。
 したがって、脳が一方的に身体を動かしているというだけでは、生体の運動制御を十分に表現できない。身体と神経系と環境の間には、絶えず情報と力のやり取りが存在する。


12.身体は環境から独立しているのか

 身体を研究する時、皮膚の内側だけを「身体」として考えることがある。しかし実際の身体運動は、環境から独立して成立しない。
 立つには支持面がある。歩くには地面がある。呼吸には外気がある。見るには光がある。物を持つには対象物がある。スポーツでは相手や道具がある。
 つまり、身体運動とは、身体内部だけで完結する現象ではなく、身体と環境との関係の中で成立する現象でもある。この視点を導入すると、身体の境界そのものについても再考する必要が生じる。


13.「身体だけ」を取り出すと失われるもの

 実験研究では、条件を統制するために対象を切り分ける。これは科学にとって不可欠である。
 しかし、統制によって除外された条件が、現実の運動では重要である場合もある。
 例えば一つの関節運動を研究するために身体を固定すれば、その関節の性質を詳細に調べられる。
 しかし、その代わりに、全身が自由に動ける時、その関節が他の身体部位とどのように関係するかという情報は減少する。
 したがって、分析の精度が上がるほど、現象全体から遠ざかる場合もあるという科学方法論上の問題が存在する。


14.還元主義は「間違い」なのか

 ここで誤解してはならない。本稿は、還元主義的方法を否定するものではない。
 身体を分解することによって、医学・解剖学・生理学は巨大な成果を上げてきた。
 一つの細胞を研究する。一つの遺伝子を研究する。一つの筋を研究する。一つの神経回路を研究する。こうした研究がなければ、身体について現在知られている多くの知識は存在しない。
 したがって問題は、分けることではない。問題は、分けて得られた知識だけで、全体を説明し切ったと考えることである。


15.分析した後に、もう一度つなぐ

 身体研究では、分析と、統合の両方が必要になる。
 まず分ける。骨を見る。筋を見る。関節を見る。神経を見る。次に、それらが実際の身体の中でどう関係しているかを見る。
 つまり、分けて知り、繋いで理解するのである。
 分析によって部分の精度を高める。統合によって関係を取り戻す。この往復が、身体を理解する上で重要になる。


16.関係論的身体観

 ここで、本稿が提示するもう一つの視点が、関係論的身体観である。
 これは、「部分など存在しない」という思想ではない。骨は存在する。筋は存在する。神経も存在する。
 重要なのは、それらの部分が、他の部分との関係から完全に独立して身体機能を成立させているわけではないということである。
 したがって、身体を見る時、何があるかだけではなく、何と何が、どのような関係にあるかを見る。これが関係論的身体観の基本となる。


17.「関係」は目に見えにくい

 骨は見える。筋も見える。画像診断によって臓器も観察できる。しかし、「関係」は物体として取り出すことが難しい。
 大腿骨と寛骨の位置関係。胸郭と骨盤の相対的位置。呼吸と姿勢の関係。視線と身体運動の関係。これらは、単独の物体ではない。しかし、身体機能を考える上では重要である。
 つまり、身体には「物」として存在するものだけでなく、「関係」として存在するものがある。この視点を持つことで、部分だけを見ていた時には見えなかった身体が現れる。


18.関係は固定されていない

 さらに重要なのは、身体における関係が固定されていないことである。
 立っている。歩き始める。走る。しゃがむ。振り向く。そのたびに、骨と骨の位置関係が変わる。関節角度が変わる。筋活動が変わる。重心位置が変わる。床との力学的関係も変わる。
 したがって身体は、関係を持っているだけではない。関係そのものを絶えず変化させている。ここに、身体の動的性質がある。


19.身体は「構造」なのか「過程」なのか

 身体には構造がある。しかし、生きた身体は、その構造を固定したまま存在しているわけではない。呼吸する。循環する。代謝する。動く。学習する。適応する。
 したがって身体は、構造体であると同時に、過程でもある。
 ここで、身体とは、構造を持ちながら、その構造間の関係を時間の中で変化させ続ける存在であるという身体観が導かれる。
 この視点に立てば、身体を理解するためには、構造を知るだけでも、運動を知るだけでも十分ではない。
 構造が、運動によってどのように関係を変化させるのか。そこまで見なければならない。


20.全体には、部分だけでは見えない性質がある

 複雑なシステムでは、個々の構成要素だけを観察していても、全体として現れる性質を十分に予測できない場合がある。
 このような問題は、一般に創発(emergence)という概念と関連して論じられる。
 身体運動について考えてみる。一つ一つの筋を研究する。一つ一つの骨を研究する。一つ一つの関節を研究する。それぞれについて精密な知識を得る。
 しかし、それだけで、歩行、走行、投球、跳躍、演奏といった全身運動そのものを完全に説明できるとは限らない。なぜなら、全身運動は多数の構造が同時に関係しながら成立する現象だからである。
 つまり、部分の性質を知ることと、部分が関係したときに現れる全体の性質を知ることは別である。


21.「全体は部分の総和以上である」とは何を意味するのか

 「全体は部分の総和以上である」という表現は、しばしば全体論を説明するために用いられる。しかし、この言葉を神秘的に理解する必要はない。
 例えば、A、B、Cという三つの要素が存在するとする。重要なのは、A、B、Cそのものだけではない。
 AとBの関係。BとCの関係。CとAの関係。さらに三者全体の配置。それらが変化すれば、同じA、B、Cが存在していても全体の性質は変わり得る。
 したがって、全体=部分+関係という考え方が必要になる。ただし実際の生体では、関係そのものも時間とともに変化する。
 より正確には、全体とは、部分と、部分間の関係と、その関係変化を含む動的な組織であると捉えることができる。


22.部分は全体から独立して意味をもつのか

 関係論的身体観をさらに進めると、逆方向の問いも生じる。全体が部分によって構成されることは明らかである。では、部分の意味は部分だけで決まるのだろうか。
 例えば手を考える。手は物を握る。しかし、身体から完全に切り離された手に、生体における「握る」という機能がそのまま成立するわけではない。
 前腕がある。上腕がある。肩甲帯がある。神経系がある。視覚がある。対象物がある。さらに、「何のために握るのか」という運動課題がある。
 したがって、部分の機能は、部分そのものの性質だけでなく、全体の中でどのような関係に置かれているかによって規定されるという側面がある。


23.部分が全体をつくり、全体が部分の意味を変える

 ここから、部分 → 全体という一方向的な構成だけではなく、部分 ⇄ 全体という関係が見えてくる。
 もちろん、全体が部分を物理的に「生み出す」という単純な意味ではない。重要なのは、機能的意味である。
 同じ筋活動でも、身体全体の姿勢が異なれば運動結果は変化する。同じ関節運動でも、支持条件が異なれば意味が変わる。同じ手の運動でも、対象物や目的が異なれば機能が変わる。
 したがって、部分は全体を構成し、全体の状態は部分の機能条件を変化させる。身体は、この往還の中に存在する。


24.局所の問題は、本当に局所だけの問題なのか

 例えば肩に問題があるとする。すると、肩だけを見る。腰に問題がある。すると、腰だけを見る。膝に問題がある。すると、膝だけを見る。局所を詳細に評価することは当然重要である。
 しかし、その局所が全身運動の中でどのような条件に置かれているかを見ることも必要になる。
 例えば膝関節に大きな負荷が生じているとしても、足部との関係、股関節との関係、骨盤との関係、運動速度、支持面、競技課題などが関与している可能性がある。
 したがって、局所に現れている現象と、その現象を成立させている条件は、必ずしも同じ場所に存在するとは限らない。


25.しかし「全部つながっている」で終わってはいけない

 ここで関係論的身体観にも危険がある。
 それは、「身体は全部繋がっています」という言葉だけで説明を終えてしまうことである。確かに身体の諸構造は関係している。
 しかし、「全部繋がっている」だけでは、具体的な説明にならない。何と何が関係しているのか。どのような構造を介しているのか。どの方向へ影響するのか。どの程度の影響なのか。どの運動課題において問題になるのか。これらを検討する必要がある。
 したがって、関係論とは、「すべてはつながっている」という曖昧な全体論ではない。むしろ、具体的な部分を知った上で、その部分間の具体的関係を検討することである。


26.全体論もまた、身体を曖昧にする可能性がある

 還元主義への批判として、「身体は全体で見るべきだ」という主張がある。しかし、「全体」という言葉もまた、使い方によっては曖昧である。
 身体全体を見る。人間全体を見る。心身全体を見る。生活全体を見る。こうした表現だけでは、具体的に何を観察しているのか分からない。
 したがって、還元主義か、全体論かという単純な二者択一では不十分である。部分だけでも足りない。「全体」という抽象語だけでも足りない。
 必要なのは、部分を具体的に知り、その部分がどのような関係によって全体を形成しているかを見ることである。


27.「ホリスティック」という言葉だけでは説明にならない

 「ホリスティック」という言葉も同様である。
 身体を全体的に見る。心と身体を一体として見る。環境まで含めて見る。こうした視点には重要な意味がある。
 しかし、ホリスティックだから正しいわけではない。「全体を見る」と言うだけでは、研究方法にはならない。
 重要なのは、どの部分とどの部分の関係を、どの尺度で、どのように観察するのかである。
 関係論的身体観には、全体性だけでなく具体性が必要になる。


28.還元主義と関係論は対立するのか

 ここまで来ると、本稿の副題である、還元主義的身体観と関係論的身体観を単純な対立として捉える必要がないことが分かる。
 還元主義は部分を明らかにする。関係論は、その部分が他とどのような関係を形成するかを見る。両者は競合するというより、異なる問いを扱っている。
 例えば、大腿骨とは何かを知るためには、解剖学的分析が必要である。
 一方、大腿骨が歩行中に他の身体構造とどのような関係を形成するかを知るためには、関係を見る必要がある。
 したがって、部分を知らずに関係は分からない。関係を知らずに、生きた部分の意味も十分には分からないのである。


29.「分ける」と「つなぐ」は循環する

 身体研究は、分ける → 繋ぐという一度きりの作業ではない。
 全体を見る。疑問が生じる。一部を取り出して分析する。詳細が分かる。再び全体へ戻す。すると、新しい関係が見える。その関係をさらに分析する。そして再び全体へ戻る。
 つまり、分析と統合は循環する。身体研究とは、この往復運動そのものとも言える。


30.尺度が変われば「部分」と「全体」も変わる

 さらに、「部分」と「全体」は固定された区分ではない。
 例えば、一個の椎骨を全体として見ることもできる。その椎骨を構成する骨組織を部分として見ることもできる。
 一方、脊柱全体から見れば、一個の椎骨は部分である。人体全体から見れば、脊柱そのものが部分となる。
 さらに人間と環境の系を考えれば、人体全体も一つの部分として捉えられる。
 つまり、何が部分で、何が全体なのかは、観察する尺度によって変化する。この階層性も、生体を考えるうえで重要である。


31.細胞から人間まで――身体は階層をもつ

 人体には複数の階層が存在する。
 分子。細胞。組織。器官。器官系。身体全体。さらに身体は環境の中に存在する。それぞれの階層には、それぞれの研究方法がある。
 細胞レベルで正しい説明が、そのまま全身運動レベルの説明になるとは限らない。
 反対に、全身レベルで観察された現象を、細胞レベルの説明なしに完全に理解できるとも限らない。
 したがって、身体研究では、どの階層について語っているのかを明示する必要がある。


32.「筋肉が原因」「脳が原因」という単一原因論

 複雑な身体現象について、「原因はこの筋肉です」「原因は脳です」「原因は骨盤です」という説明がなされることがある。特定の条件では、一つの要因が非常に大きな役割をもつことは当然ある。
 しかし、多因子的な現象について単一部分だけを原因として固定すると、他の条件が見えなくなる可能性がある。
 重要なのは、一つの部分が関与していることと、その部分だけで現象全体が説明できることを区別することである。


33.「原因」は場所ではなく関係にある場合もある

 さらに、身体現象の原因を、どこにあるかという場所の問題としてだけ捉えないことも重要である。
 ある部分そのものには異常がなくても、他の部分との関係に問題が生じている可能性がある。
 つまり、Aが悪い。Bが悪い。ではなく、AとBの関係が現在の課題に適していないという問題である。
 ここでは原因は一つの「物」の中ではなく、関係の中に存在する。
 この視点は、身体を部分の集合としてのみ見る場合には捉えにくい。


34.関係そのものが運動する

 さらに身体運動では、関係は静止していない。
 AとBが関係している。それだけではない。Aが動けば、AとBの関係が変わる。Bも動けば、その関係はさらに変わる。そして、その関係変化がCの運動条件を変える場合がある。
 したがって、身体運動とは、部分が動くことだけではなく、部分間の関係そのものが時間の中で変化することである。
 ここまで来ると、身体運動を見る単位そのものが変わる。「何が動いたか」だけではなく、「何と何との関係が、どう変化したか」を見る必要が生じる。


35.「部位の運動」から「関係の運動」へ

 例えば、「腕が上がった」という記述は正しい。しかし、身体内部では、上腕骨と肩甲骨の関係が変わる。肩甲骨と胸郭の関係が変わる。鎖骨との関係も変化する。さらに姿勢や運動課題によっては、脊柱や骨盤との関係も変化する。
 したがって、腕が上がるという一つの現象の中に、多数の関係変化が含まれている。
 この視点からすると、身体運動の基本単位を「部位」だけではなく「関係」に置くという身体観が可能になる。


36.関係論的身体観は「部分」を消さない

 ここで改めて強調しておきたい。関係を重視するからといって、部分を曖昧にしてはならない。
 「全部繋がっている」と言うためには、まず、何があるのかを知らなければならない。
 骨を知らなければ、骨と骨の関係は語れない。関節を知らなければ、関節運動は語れない。筋を知らなければ、筋活動の関係も語れない。
 したがって、関係論的身体観は、解剖学を捨てる思想ではない。解剖学によって分けられた身体を、再び関係の中へ戻す視点である。


37.「分解できること」と「独立していること」は違う

 科学的分析のために、身体を分解して考えることはできる。
 しかし、分析上分離できることと、生体内で独立して存在・機能していることは同じではない。
 大腿骨だけを研究できる。しかし、生体内の大腿骨は寛骨や脛骨との関係から切り離されていない。
 筋だけを研究できる。しかし、生体内の筋は神経系・骨格・外部負荷との関係の中にある。
 したがって、研究上の境界を、そのまま身体そのものの境界だと考えてはならないのである。


38.名前を付けることは、境界をつくることでもある

 身体を研究するためには、名称が必要である。大腿骨。肩甲骨。胸郭。上肢。下肢。体幹。
 しかし、名前を付けるということは、同時に境界を設定することでもある。「ここからここまでが上肢」「ここは体幹」と分類する。これは研究上必要である。しかし、生体の運動がその言語的境界で切断されているわけではない。
 したがって、言葉によって身体を分けることと、身体そのものが分かれて動いていることを混同してはならない。


39.身体は「名詞」の集合ではない

 解剖学書を開けば、多数の名詞が並んでいる。骨。筋。関節。神経。血管。靱帯。腱。臓器。それらには名称が与えられ、位置が示され、形態や機能が記述される。これは身体を理解するために不可欠である。
 しかし、生きた身体の中では、それらの名詞は止まっていない。骨は動く。関節は位置関係を変える。筋は活動量を変化させる。神経系は情報を受け取り、処理し、出力する。胸郭は呼吸によって形態を変化させる。身体全体は環境へ応答する。
 したがって、生きた身体とは、解剖学的名詞が並んだものではなく、それらの関係が絶えず変化する動的現象であると言うことができる。


40.「骨」から「骨がどう関係しているか」へ

 例えば、「骨」という名詞を知る。次に、その骨の形態を知る。さらに、その骨がどの骨と関節するかを知る。ここまでは構造の理解である。
 しかし身体運動を考えるなら、さらに問いを進める必要がある。その骨は、他の骨に対してどう動くのか。一方が動いた時、他方との関係はどう変化するのか。その関係変化は、さらに別の構造へどのような条件を与えるのか。
 つまり、「骨とは何か」という問いから、「骨と骨の関係は、運動によってどう変化するのか」という問いへ進む。ここで解剖学的身体観から運動的身体観への移行が起こる。


41.身体を「動詞」として捉える

 これまでの議論をさらに進めるならば、身体そのものを動詞的に捉えることができる。
 身体は存在する。しかし同時に、呼吸している。循環している。支持している。動いている。適応している。学習している。変化している。
 つまり身体は、「ある」だけではなく、「している」。この視点に立つと、身体とは完成された物体ではなく、絶えず身体し続けている過程であると表現することもできる。
 勿論「身体する」という語は通常の解剖学用語ではない。しかし身体を固定された物体としてのみ捉えないための、身体論的表現として意味をもつ。


42.構造は静止していない

 「身体構造」という言葉から、骨格模型のような静止した構造を想像しやすい。しかし、生体における構造は運動する。脊柱は形を変える。胸郭は呼吸によって変形する。骨盤は運動する。肩甲骨は胸郭との位置関係を変える。大腿骨は寛骨との関係を変える。
 つまり、構造があることと、構造が固定されていることは同じではない。
 むしろ、身体構造とは、関係を保ちながら変化できる構造であると捉える必要がある。

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43.「構造」と「運動」は別概念なのか

 一般には、構造=形、運動=その形が動くこと、と分けて考える。
 しかし、生体では両者を完全に分離することは難しい。
 運動すれば構造間の関係が変化する。そして、その新しい関係が次の運動条件となる。
 つまり、構造が運動を規定し、運動が構造関係を変える。この循環が続く。
 したがって、身体運動とは、構造の外側で起きる現象ではなく、構造関係そのものの時間的変化であるという見方が可能になる。


44.「部分が動く」から「関係が動く」へ

 従来の運動記述では、「肩が動く」「腕が上がる」「骨盤が回る」と表現する。これらは必要な記述である。
 しかし、関係論的身体観では、もう一段深く見る。肩甲骨と上腕骨の関係が変化する。胸郭と肩甲骨の関係が変化する。骨盤と大腿骨の関係が変化する。椎骨と椎骨の関係が変化する。
 つまり、身体運動とは、部分が空間内を移動するだけではなく、部分と部分の関係そのものが変化することである。この視点を持つと、身体運動の見え方は大きく変わる。


45.一つの運動には、多数の関係変化が含まれている

 例えば「歩く」という一つの動作を考える。脚が前へ出る。しかし、それだけではない。足部と地面の関係が変化する。脛骨と大腿骨の関係が変化する。大腿骨と骨盤の関係が変化する。骨盤と脊柱の関係が変化する。上肢も運動する。頭部も空間内を移動する。身体重心も移動する。
 つまり、「一歩歩く」という一つの運動の内部に、多数の関係変化が同時に存在する。身体運動を一つの部位へ還元すると、この複雑性が見えなくなる。


46.全身運動とは「全部の部位が動くこと」なのか

 「全身運動」という言葉がある。一般には、腕も脚も体幹も使う運動を意味する。しかし関係論的に考えるならば、全身運動とは単に多数の部位が同時に動くことではない。
 各部位がバラバラに動いていても、「全部が動いている」という意味では全身運動になる。
 しかし、生体として重要なのは、それらの運動がどのような関係にあるのかである。
 したがって、全身運動とは、全身の部位が動くことではなく、全身の関係が運動として組織化されることであるという捉え方が可能になる。


47.身体の「全体」は固定されたものではない

 身体全体という言葉も、固定的な一個体を想像させる。しかし、身体全体の状態は瞬間ごとに変化する。
 立っている身体。走っている身体。眠っている身体。重量物を持っている身体。水中にいる身体。それぞれ身体を構成する骨や筋が別物になるわけではない。しかし、構造間の関係と環境との関係が変わる。
 したがって、「全体」とは固定された完成形ではなく、その瞬間に組織化されている関係の総体として考えることができる。


48.身体と環境をどこで切るのか

 さらに関係論を進めると、身体の境界についても問いが生じる。
 歩行する時、足は地面から力を受ける。椅子に座れば、身体は椅子によって支持される。道具を持てば、身体は道具との力学的関係を形成する。相手と組めば、相手から力を受ける。
 この時、身体だけを切り離して運動を説明できるのかという問題が生じる。勿論、解剖学的な身体の境界は存在する。
 しかし、運動という現象の単位を考えるならば、身体―環境系として見る必要がある場合もある。


49.歩行は「身体の中」だけで起きていない

 例えば歩行は、身体内部だけで成立する現象ではない。
 地面がなければ、通常の地上歩行は成立しない。足が地面へ力を及ぼす。地面から身体へ反力が作用する。摩擦が存在する。重力が作用する。
 したがって、歩行とは身体内部の筋活動だけではなく、身体と環境との力学的関係によって成立する。
 この意味では、運動を理解するための「全体」は、必ずしも皮膚の内側だけとは限らないのである。


50.身体は「閉じた系」ではない

 生きた人間は外界から完全に独立した閉鎖系ではない。酸素を取り込む。食物を摂取する。水分を摂取する。熱を放散する。光を受け取る。音を受け取る。外力を受ける。そして、外界へ働きかける。
 したがって身体は、環境との物質・エネルギー・情報の交換の中で存在する開放系として捉えることができる。
 ここまで考えると、「身体とはどこまでなのか」という問いそのものが、単純ではないことが分かる。


51.関係論は「身体の境界」を消す思想ではない

 ただし、ここでも極端な結論には注意が必要である。
 身体と環境が関係しているからといって、身体と環境の区別が存在しないと結論する必要はない。
 身体には身体の構造がある。環境には環境の条件がある。重要なのは、区別することと、切断することは違うということである。
 身体と環境を区別した上で、その関係を見る。部分と全体を区別した上で、その関係を見る。関係論的身体観とは、境界をすべて消す思想ではない。境界を認めながら、その境界を越えて生じる関係を見る視点である。


52.「関係を見る」とは具体的に何をすることなのか

 関係論という言葉だけでは抽象的である。
 身体研究において「関係を見る」とは、例えば、一つの骨が動いた時、隣接する骨がどう変化するかを見る。一つの関節角度が変化した時、別の関節運動がどう変化するかを見る。姿勢が変化した時、筋活動がどう変わるかを見る。支持面が変わった時、全身運動がどう変化するかを見る。運動速度が変わった時、身体各部の協調がどう変化するかを見る。
 つまり、一つの変数だけを見るのではなく、変数間の関係変化を見ることである。


53.関係論的身体観にも検証が必要である

 関係を重視する身体観は魅力的である。しかし、「すべて関係しています」という主張だけでは科学的説明にはならない。
 どの関係が存在するのか。その関係は再現できるのか。どの条件で現れるのか。どの程度の影響があるのか。因果関係なのか。相関関係なのか。単なる同時変化なのか。これらを検証する必要がある。
 したがって、関係論的であることと、曖昧であることを混同してはならない。むしろ関係論を成立させるためには、部分についての精密な知識が必要になる。


54.「全部を見る」のではなく「関係を特定する」

 人間の身体には膨大な数の構成要素が存在する。そのすべてを同時に完全に観察することは現実的ではない。
 したがって関係論とは、何でも全部見ることではない。
 重要なのは、研究対象となる現象において、どの関係が重要なのかを特定することである。
 つまり、還元主義が、何を分けて見るかを問うならば、関係論は、何と何を結んで見るかを問う。両者は身体研究に必要な異なる操作なのである。


55.部分と全体のどちらが先なのか

 「部分が集まって全体になる」と考えることができる。一方、「全体の中で部分の意味が決まる」とも考えられる。
 では、どちらが先なのか。身体研究において、この問いを一方だけに決める必要はない。部分から全体を見ることもできる。全体から部分を見ることもできる。
 重要なのは、視点を固定しないことである。局所を見る。全体へ戻る。再び局所を見る。関係を見る。この往復によって身体理解は更新される。


56.身体は「部分」でも「全体」でもある

 一個の椎骨は、脊柱の部分である。しかし、その椎骨そのものを研究するときには、一つの全体として扱うことができる。
 脊柱は人体の部分である。しかし、脊柱運動を研究するときには一つの系として扱える。人体は環境との関係では一つの部分となる。
 つまり、部分と全体は絶対的な属性ではない。観察尺度によって変化する。
 したがって、身体とは、複数の階層において「部分でありながら全体でもある」構造であると考えることができる。

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57.還元するからこそ、関係が見える

 一見すると、還元主義と関係論は反対に見える。しかし実際には、精密な関係論を構築するためには還元が必要である。
 「骨と骨が関係する」と言うためには、まず骨を区別しなければならない。「筋と骨が関係する」と言うためには、筋と骨を区別しなければならない。
 つまり、分けなければ、何と何が関係しているのか分からないのである。
 したがって、分析は関係論の敵ではない。分析によって部分を明確にするからこそ、その間にある関係も明確になる。


58.そして、関係を見るからこそ部分が分かる

 反対方向も成立する。一個の骨の身体内での意味を理解するためには、その骨が他の骨とどのような関係にあるかを知る必要がある。
 一つの筋の機能を理解するためには、関節・骨・他の筋・運動課題との関係を見る必要がある。
 つまり、関係を知らなければ、生きた身体における部分の意味も十分には分からない。
 分析と関係論は循環する。部分を知るために関係を見る。関係を知るために部分を見る。この往復こそが重要なのである。


結論――身体は部分の集合なのか

 本稿の出発点は、身体は部分の集合なのかという問いであった。
 この問いに対して、「いいえ、身体は部分の集合ではない」と単純に答えることも適切ではない。身体が多数の部分によって構成されていることは事実だからである。
 骨がある。筋がある。神経がある。血管がある。臓器がある。細胞がある。
 したがって、身体は部分から構成されている。しかし同時に、身体は部分だけでは成立しない。骨が存在するだけでは骨格にならない。筋が存在するだけでは運動にならない。神経が存在するだけでは行為にならない。それらが一定の関係を形成し、その関係を時間の中で変化させることによって、生きた身体現象が成立する。
 したがって、より正確には、身体は「部分の集合」ではなく、「部分と関係から成る動的構造」であると表現することができる。
 そして、この関係は固定されていない。立つ。歩く。走る。呼吸する。手を伸ばす。物を持つ。振り返る。その一つ一つの運動によって、身体を構成する部分間の関係は絶えず変化する。
 したがって身体とは、部分が一定の位置に組み上げられた完成品ではない。むしろ、部分間の関係を絶えず変化させながら、その瞬間ごとに全体を形成し続ける動的構造であると言うことができる。


「身体がある」のではなく、「身体が成立し続けている」

 この視点をさらに進めると、身体についての認識そのものが変化する。
 我々は通常、「ここに身体がある」と考える。勿論、物理的な意味ではその通りである。
 しかし、生きた身体という現象に注目すれば、身体は完成された物体として一度成立し、その後ずっと同じ状態で存在しているわけではない。
 呼吸が続く。循環が続く。代謝が続く。感覚入力が続く。筋活動が変化する。身体各部の位置関係が変化する。環境との関係も変化する。
 つまり、生体としての身体は、一度成立したものではなく、成立し続けているものなのである。


身体は「完成品」ではない

 機械製品であれば、部品を組み立て、完成した時点で一つの製品となる。
 しかし身体は異なる。成長する。学習する。適応する。疲労する。回復する。老化する。運動によって変化する。環境によって変化する。経験によっても変化する。
 したがって、身体は完成した構造物ではない。生きている限り、身体は変化し続ける。
 この意味において、身体とは「完成した構造」ではなく、「構造化し続ける過程」であるという見方も可能になる。


「全体」は毎瞬つくられ直している

 身体全体もまた固定されていない。例えば立っている身体と走っている身体では、構成する骨や筋が別物になるわけではない。
 しかし、それらの関係は大きく異なる。筋活動が変わる。関節角度が変わる。重心位置が変わる。支持条件が変わる。外力との関係が変わる。
 したがって、「身体全体」というものも、固定された一つの配置を意味するわけではない。
 その瞬間ごとに、部分が関係し直されることで、全体が形成されていると言うことができる。


「部分」と「関係」のどちらが重要なのか

 ここまで来ると、部分と関係のどちらが重要なのかという問いそのものが不十分であることが分かる。
 部分がなければ、関係は成立しない。関係がなければ、部分は生体内における現在の機能を成立させられない。
 したがって、部分か、関係かではない。部分と関係を同時に見ることが必要なのである。還元主義的分析によって部分を明確にする。関係論的分析によって、それらがどのように結ばれているかを見る。そして運動を観察することで、その関係が時間の中でどのように変化するかを見る。この三つを分離しないことが重要になる。


「部分―関係―運動」という三つの視点

 身体を研究する際には、少なくとも三つの問いを設定できる。
 第一に、何があるのか。これは部分・構造の問題である。第二に、何と何が、どのような関係にあるのか。これは構造間関係の問題である。そして第三に、その関係が、時間の中でどのように変化するのか。これは運動の問題である。
 つまり、部分→関係→運動という三つの階層で身体を見ることができる。
 ただし、これは一方向的な階層ではない。運動によって関係が変わり、関係が変わることで各部分の運動条件も変わる。
 したがって実際には、部分 ⇄ 関係 ⇄ 運動という循環的な身体理解が必要になる。


「どの筋肉を使うか」だけでは身体運動を説明できない

 運動指導では、「どの筋肉を使うのか」が重要視されることがある。勿論、筋活動を知ることには大きな意味がある。
 しかし、同じ筋が活動していても、身体位置が違う。関節角度が違う。外部負荷が違う。支持条件が違う。運動速度が違う。他の身体部位との関係が違う。それによって運動結果は変化する。
 したがって、身体運動とは「どの部分を使ったか」だけではなく、「その部分が他とどのような関係で働いたか」によって成立するのである。


「一個の骨」を見ることから始まり、「全身」へ戻る

 身体研究において、一個の骨を詳細に見ることには大きな価値がある。
 形を見る。関節面を見る。方向を見る。他の骨との連結を見る。しかし、一個の骨を知った後には、その骨を再び身体へ戻さなければならない。
 その骨は、どの骨と関係しているのか。その関係は運動によってどう変わるのか。さらに、その変化は別の構造とどう関係するのか。このように視野を広げる。
 つまり、一個を見る。関係を見る。そして、もう一度全体を見る。この往復によって身体理解は深まる。


「全身を見る」ために、一個を見る

 一見すると、一個の骨だけを見ることと、全身を見ることは、正反対に思える。しかし、必ずしもそうではない。
 一個の骨を精密に見るからこそ、その骨と他の骨との関係が見える。関係が見えるから、さらに別の構造との関係が見える。そして、その連続の先に全身が現れる。
 したがって、全身を見るとは、細部を見ないことではない。細部を関係の中で見ることであるのである。
 これは、曖昧な「全体論」と、関係論的身体観を区別する重要な点である。


還元主義を超えるとは、還元主義を捨てることではない

 「還元主義を超える」という言葉は、しばしば「部分を見ることをやめる」という意味に誤解される。
 しかし、本稿でいう関係論的身体観はそうではない。
 骨を詳細に見る。筋を詳細に見る。関節を詳細に見る。神経を詳細に見る。その精度を下げる必要はない。
 むしろ、より細かく分ける。そして、より精密に繋ぐのである。
 したがって、還元主義を超えるとは、分析を捨てることではなく、分析によって得た部分を関係の中へ戻すことであると表現できる。


「部分の科学」と「関係の科学」

 近代科学は、対象を分けることで巨大な知識体系を築いてきた。身体研究においても、その成果は計り知れない。
 しかし、身体をさらに深く理解するためには、部分の科学だけでなく、関係の科学が必要になる。何があるのか。だけではなく、何と何が関係しているのか。さらに、その関係がどのように変化するのかを見る。
 つまり、構造の科学から、構造間関係の科学へ。さらに、関係の科学から、関係変化としての運動の科学へ。身体研究は、そこまで拡張することができる。


身体とは「関係する構造」である

 以上の議論を最も簡潔に表現するならば、身体とは、構造である。しかし、ただの構造ではない。関係する構造である。さらに、ただ関係しているだけでもない。関係を変化させ続ける構造である。
 したがって、身体とは、複数の構造が関係し、その関係を絶えず変化させながら全体を形成し続ける動的構造体であると定義することができる。


身体は「部分の集合」から「関係する全体」へ

 身体を部分の集合として見ると、骨。筋。関節。神経。臓器。という名詞が並ぶ。
 しかし、生きた身体を見ると、それらは関係する。影響し合う。位置を変える。力を受ける。力を返す。動く。適応する。
 つまり、名詞だけだった身体に、関係と時間が加わる。ここで初めて、解剖された身体から、生きて動く身体へ戻ることができる。


最終結論――身体は「部分」ではなく、「間」にも存在する

 身体は部分からできている。この事実を否定する必要はない。
 しかし、身体は部分だけからできているわけではない。
 骨と骨の間に関節がある。構造と構造の間に位置関係がある。身体と床の間に力学的関係がある。身体と環境の間に相互作用がある。そして運動によって、その「間」は絶えず変化する。
 したがって、身体を理解するためには、「何があるか」だけではなく、「何と何の間に、何が起きているか」を見なければならない。
 一個の骨を見る。しかし、一個の骨だけでは終わらない。その骨と隣の骨を見る。その間を見る。さらに別の骨との関係を見る。そして、それらが動いた時、関係そのものがどう変化するのかを見る。ここに、関係論的身体観の核心がある。
 身体は、部分の集合ではない。しかし、部分を否定した全体でもない。部分があり、部分間の関係があり、その関係が時間の中で変化し、その変化によって全体が成立し続けている。
 したがって、身体とは、「部分+関係+関係変化」である。そして身体運動とは、部分が動くことだけではなく、関係が動くことである。
 身体を知るとは、骨の名前を知ることだけではない。筋の名前を知ることだけでもない。身体を細かく分けることだけでもない。反対に、「全部繋がっている」と抽象的に語ることでもない。
 必要なのは、徹底的に分けること。そして、徹底的に関係を見ること。分けて、繋ぐ。繋いで、また分ける。部分を見る。全体へ戻る。全体から、もう一度部分を見る。その往復の中で、身体は単なる「部品の集合」ではなく、無数の関係が絶えず組み替わりながら成立し続ける、生きた構造
として姿を現す。
 故に、身体の本質は、部分だけにはない。全体だけにもない。身体は、「部分と部分の間」にも存在する。
 そして、その「間」が変化する時、身体は、動くのである。

身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi


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