筋力と脱力は対立するのか
―トレーニング種目論から身体構造論へ

要旨

 筋力トレーニングをめぐっては、その必要性と有効性が広く論じられる一方、「身体が硬くなる」「力みが生じる」「繊細な身体感覚が失われる」といった批判も存在する。とりわけ武術や身体技法の領域では、筋力と脱力が対立的に捉えられることが少なくない。
 しかし、同一あるいは類似した筋力トレーニングを行っても、動作の柔軟性、速度、力強さを向上させる者がいる一方、動作が硬くなる者も存在する。また逆に、脱力法や武術的身体操作を実践していても、過剰な緊張を呈する者は存在する。
 この事実は、身体に生じる結果を「筋力トレーニング」「脱力法」「武術」といった運動種目の名称のみから説明することの限界を示唆する。
 本稿では、身躰構造學の立場から、問題の中心を「何を行っているか」から「その運動中、身体が実際に何をしているか」へ移す。そして筋力と脱力を対立概念としてではなく、身体構造を介して統合され得る二つの身体機能として捉え直し、「身躰開發」という実践概念を提示する。


1.筋力トレーニングは身体を硬くするのか

 筋力トレーニングに対する代表的な批判として、「力み癖がつく」「動作が硬くなる」「身体感覚が鈍くなる」といった指摘がある。
 これに対し、筋力トレーニングの有効性を主張する側からは、筋力、パワー、競技能力等への効果が論じられる。
 しかし、この議論には一つの問題がある。それは、「筋力トレーニング」というカテゴリーそのものに、身体を硬くする作用、あるいは身体を高機能化する作用が内在しているかのように論じられることである。
 実際には、筋力トレーニングを行いながら柔軟かつ素早く力強い動作を示す者もいる。
 一方で、同様のトレーニングによって過剰な緊張を呈する者もいる。
 この差異が存在する以上、「筋トレをしたから硬くなった」という説明だけでは不十分である。
 問われるべきなのは、その人物が、そのトレーニングをどのような身体状態で、どのような身体運動として遂行していたのか
という問題である。


2.「野生動物は筋トレをしない」という議論

 筋力トレーニング不要論において、「野生動物は筋力トレーニングをしない」という比喩が用いられることがある。
 しかし、この論理をそのまま採用することはできない。
 野生動物は人間が体系化した筋力トレーニングを行わないが、同様に武術、脱力訓練、ヨガ、スポーツ等も行わない。
 したがって、「自然界の動物が行っていない」ことは、それだけでは人間にとって当該身体実践が不要であることの根拠にはならない。
 むしろ野生動物から学ぶべき点があるとすれば、特定の運動種目の有無ではなく、運動が生活・環境・身体構造と分離されずに成立しているという点ではないだろうか。


3.問題は「種目」ではなく「遂行する身体」にある

 ここで重要となるのが、具体的種目ではなく、その運動中に身体が何をしているのかという視点である。
 筋力トレーニング。武術。脱力法。ストレッチ。ヨガ。スポーツ。
 これらは運動実践を分類する名称であって、その名称だけから実践者の身体内部で生じている現象を判断することはできない。
 同じスクワットでも、身体各部が協調的に運動している場合と、特定部位へ過剰な緊張を集中させている場合とでは、その身体的意味は異なる。
 したがって、運動種目 ≠ 身体運動の実態である。
 これは筋力トレーニングだけに適用される問題ではない。


4.脱力法を行えば脱力できるのか

 筋力トレーニングを批判する立場では、代替として武術、脱力法、身体操作等が推奨されることがある。
 しかし、脱力法を行っていることと、実際に脱力していることは同義ではない。
 武術を稽古しながら動作が硬くなることもあり得る。脱力を意識するあまり、かえって身体に過剰な緊張を生じさせることもあり得る。
 「身体の使い方」を強く意識することで、局所への注意が過剰となり、運動全体の協調性を失う可能性もある。
 したがって、筋力トレーニング=緊張、脱力法=脱力という対応関係を前提とすることはできない。
 問題は方法の名称ではなく、そこで実際に生起している身体現象である。


5.筋力と「力み」は同じではない

 筋力と過剰緊張は区別されなければならない。
 筋が力を発揮すること自体は、人間の運動に不可欠である。
 立位を維持する。歩く。走る。物を持つ。跳ぶ。投げる。これらの運動はいずれも筋活動を伴う。
 したがって、「脱力」を文字通り筋活動の消失として理解することはできない。
 身体運動において重要なのは、必要な筋活動まで消失させることではなく、必要な部位が必要な時に必要な程度だけ働き、不必要な緊張が抑制されることである。
 この意味で、脱力は「無力」ではない。
むしろ、力を必要な場所へ適切に配分するための条件として理解することができる。


6.筋肉と骨格を対立させない

 同様に、「筋肉か、骨か」という二項対立にも問題がある。
 身体は骨格だけでは運動できない。筋組織だけでも身体構造を形成できない。骨格と筋は相互に関係して運動を成立させる。  
 したがって、「筋肉より骨が重要である」、或いは、「骨より筋肉が重要である」という単純な序列化では、身体運動を十分に説明できない。
 身躰構造學では、骨格によって力を受け、伝え、支えることと、筋活動によって力を生成・調整することを、一つの運動系として捉える。
 骨と筋は競合するのではない。両者の関係によって身体運動が成立する。


7.「身体が構造通りに動く」という第三の視点

 筋力か脱力か。筋肉か骨か。鍛えるか緩めるか。これらの二項対立から離れるために、本稿では、「身体が構造通りに動いているか」という第三の視点を提示する。
 ここでいう「構造通り」とは、特定の静止姿勢を固定することではない。また、一つの理想フォームへすべての人間を当てはめることでもない。
 骨格各部がその形態的条件を活かしながら相互に関係し、運動全体へ参加する状態を指す。
 この観点からすれば、筋力トレーニングであっても、身体構造との関係を保ちながら遂行されるならば、必ずしも身体を硬くするとは限らない。
 逆に、脱力法であっても、身体構造との関係を失ったまま局所的に「力を抜こう」とすれば、新たな緊張を形成する可能性がある。


8.「今、私は何をしているのか」という身体認識

 身躰開發において重要なのは、「今、私はこの鍛錬によって何をしているのか」を物理的身體として理解することである。
 なぜ、この運動を行うのか。何のために行うのか。どの骨格が運動しているのか。どの筋群が活動するのか。どこに力が伝わっているのか。どの部位には不要な緊張が生じているのか。
 こうした問いを、単なるイメージではなく実際の身体構造と対応させていく。
 この身体認識によって、筋力を発揮することと、不要な力を抜くことを同一の運動の中で扱うことが可能になる。


9.脱力と筋力を繋ぐもの

 筋力と脱力は、互いを打ち消す概念ではない。
 高い運動能力を考えれば、むしろ両者は同時に必要となる。
 大きな力を発揮できても、その力を解除できなければ次の運動へ移行できない。
 反対に、十分に緩むことができても、必要な瞬間に力を発揮できなければ、高出力を必要とする運動は成立しない。
 したがって重要なのは、力を出す能力と、力を抜く能力との切り替えおよび協調である。
 本稿では、その両者を媒介する条件として身体構造を位置づける。
 即ち、脱力→身体構造→筋力という関係である。筋力と脱力を直接対立させるのではなく、身体構造を介して両者を統合する。これが身躰開發における基本的発想である。


10.「付けた筋肉」と「付いた筋肉」

 筋肉量についても、その量のみを評価することには限界がある。
 本稿では、この問題を表現するために、「付けた筋肉」と「付いた筋肉」という区別を提示する。
 これは生理学上の正式な分類ではなく、身体形成のプロセスを考察するための概念的区別である。
 「付けた筋肉」とは、筋量の増加それ自体を主要な目的として形成された筋を意味する。
 これに対して「付いた筋肉」とは、特定の身体運動や技術を反復する過程で、その運動に必要な結果として発達した筋を意味する。
 両者は実際には明確に二分できるものではない。
 しかし、どれだけ筋肉があるかだけでなく、どのような身体活動の結果として、その筋肉が形成されたのかを問うことには意味がある。
 動ける身体を目的とするならば、筋量という結果だけでなく、その筋量を形成した運動過程が重要なのである。


11.見える筋肉と、見えにくい筋肉

 身体能力を外観だけから評価することにも限界がある。
 身体表面から確認しやすい筋の発達だけが、身体能力を規定するわけではない。
 手掌、足底、大腿内側・後面、脊柱周囲など、競技や身体技法によって反復的に使用される領域には、それぞれ固有の筋活動が存在する。
 また、身体深部に位置する筋群については、外観からその発達や機能を直接判断することは困難である。
 したがって、「マッチョに見えるか否か」と、「身体運動に必要な筋機能が発達しているか」は区別する必要がある。
 著者自身についても、身体組成測定において高い筋肉量を示す結果が得られている。ただし、その数値を学術的資料として扱うためには、使用機器、測定法、測定条件、指標の定義等を明示する必要がある。
 重要なのは著者個人の数値そのものではなく、外見的筋肥大と機能的な筋発達は必ずしも同一ではないという問題である。


12.江戸期日本人の身体をどう考えるか

 本稿の問題は、歴史的身体論にも接続する。
 著者は、近世以前の日本人の身体運用について継続的に検討している。
 ここで注意すべきなのは、「昔の日本人は骨を使い、現代人は筋肉を使う」という単純な二分法に陥らないことである。
 近世の人々も当然ながら筋活動によって身体を動かしていた。
 したがって検討すべきなのは、筋肉の有無ではなく、骨格運動と筋活動がどのような関係のもとで身体技法を形成していたのかという問題である。
 労働、歩行、武術、芸能、生活姿勢等を含む日常的身体活動が、筋・骨格系へどのような適応を形成していたのか。
 これは歴史資料、身体文化研究、運動学等を横断して検証すべき課題である。
 したがって、「江戸時代の日本人は筋力と脱力を融合していた」という命題については、現段階では身躰構造學から提出する研究仮説として位置づけるのが適切である。


13.超一流の身体に見られる「力と脱力」の共存

 高度な競技能力を持つアスリートの動作には、しばしば一見矛盾した特徴が認められる。
 動作は柔らかく見える。しかし、発揮される力は大きい。高速で動く。しかし、常時全身を硬直させているわけではない。
 ここから示唆されるのは、高いパフォーマンスとは、筋力を消失させた状態ではなく、必要な筋力を適切な時空間で発揮できる状態なのではないかということである。
 つまり、脱力 × 筋力という関係である。
 ただし、この「×」は数学的乗算を意味するものではない。二つの能力が相互に関係しながら運動パフォーマンスを成立させるという概念表現である。
 身躰構造學では、その統合条件を身体構造の側から探究する。


14.「何をやるか」より「どんな身体でやるか」

 ここまでの議論は、一つの命題へ集約できる。
 運動の名称だけでは、その身体的効果を決定できない。
 筋力トレーニングだから硬くなるのではない。脱力法だから柔らかくなるのでもない。武術だから身体操作が上達するわけでもない。同じ方法でも、異なる身体が実践すれば異なる結果が生じ得る。
 したがって問うべきは、「何をやっているか」だけではなく、「その時身体は何をしているのか」である。
 筋力を発揮しているのか。不要な緊張を生じさせているのか。骨格各部が相互に関係して運動しているのか。或いは、特定部位のみで運動を代償しているのか。
 方法論の名称ではなく、実際に生じている身体現象を見ることが重要なのである。
 この意味において、「何をやるか」より、「どんな身体でやるか」。
 これは筋力トレーニングに限らず、あらゆる身体実践に共通する根本問題である。


結語

脱力と筋力を対立させない

 筋力と脱力は、本来、二者択一のものではない。
 力を発揮するためには筋活動が必要であり、その力を適切に発揮するためには、不要な緊張から解放されている必要がある。
 したがって重要なのは、筋力を捨てて脱力を選ぶことでも、脱力を捨てて筋力を選ぶことでもない。両者を一つの身体の中で成立させることである。
 身躰構造學では、その媒介となるものを身体構造に求める。
 身体がその構造に即して動くことによって、必要な力を発揮しながら、不要な力を手放す。
 この両立を探究する実践こそが、本稿でいう身躰開發である。
 脱力だけでもない。筋力だけでもない。その両者を身体構造の中で融合する。
 そこに、再現性ある身躰操作と、高度な身体パフォーマンスを考えるための一つの鍵がある。

身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi

 

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