姿勢を「意識する」とは何か
―意識的身体制御と運動遂行をめぐる考察

要旨

 「姿勢を意識する」「背筋を伸ばすことを意識する」「正しい姿勢を維持する」といった表現は、健康指導、運動指導、教育、リハビリテーション、スポーツなど幅広い領域で使用されている。

 しかし、「姿勢を意識する」という行為が、身体運動において具体的に何を意味しているのかは必ずしも明確ではない。

 人間の姿勢制御は、視覚、前庭感覚、体性感覚など複数の感覚情報を利用しながら、中枢神経系によって絶えず調整される動的過程である。その大部分は、逐一言語的・意識的に命令することなく遂行されている。

 一方、「胸を張る」「腹部に力を入れる」「肩を下げる」「骨盤を立てる」など、特定の身体部位を意識的に操作する姿勢指導では、本来は自動的に遂行される身体制御へ意識的介入が加わる。

 本稿では、「姿勢を意識する」ことを無条件に肯定または否定するのではなく、①姿勢とは静止した形なのか、②姿勢制御と意識的制御はどのような関係にあるのか、③身体内部へ注意を向けることが運動遂行へどのような影響を与え得るのか、④姿勢指導において「意識」はどのような役割を担うべきか、という観点から検討する。

 最終的には、「正しい姿勢を意識し続ける」という発想そのものを問い直し、意識によって身体を固定的に管理することと、身体が環境および運動課題に応じて適応的に姿勢を形成することとの区別を提示する。

キーワード: 姿勢、姿勢制御、意識、注意、運動制御、自動化、身体感覚、運動遂行


1.「姿勢を意識して下さい」という言葉

 姿勢指導では、しばしば次のような言葉が使われる。「姿勢を意識して下さい」「背筋を伸ばして下さい」「胸を張って下さい」「お腹に力を入れて下さい」「骨盤を立てて下さい」
 これらの指示には共通する前提がある。それは、姿勢は、本人が意識的に管理することによって改善・維持されるという考え方である。
 確かに、人間は自らの身体へ意識を向け、姿勢を変化させることができる。猫背だと指摘されれば、胸を張ることができる。肩が上がっていると言われれば、意識的に下げることができる。
 したがって、「姿勢を意識する」という方法そのものが無意味なのではない。
 問題は、その意識を持続し続けることが、姿勢制御として本当に適切なのかという点にある。


2.そもそも姿勢とは「形」なのか

 姿勢という言葉から、多くの人は静止した身体の形を想像する。横から見た立位姿勢。椅子に座った姿勢。背筋の伸びた姿勢。猫背。反り腰。
 しかし、人間の身体は完全には静止していない。静かに立っているだけでも、身体重心は微細に変動し、姿勢制御系は絶えず調整を続けている。
 呼吸によって胸郭は動く。頭部も微細に動く。足底への荷重も変化する。
 したがって、姿勢とは写真の一瞬を切り取ったような固定形態だけではない。
 むしろ、姿勢とは、重力と環境の中で身体がその時々に成立させている動的な状態であると捉える必要がある。
 ここから、「正しい姿勢を固定する」という発想そのものを再検討する必要が生じる。


3.人間は姿勢を逐一「考えて」維持しているのか

 もし姿勢維持のすべてを意識的に行わなければならないとすれば、人間は立っているだけで膨大な認知的作業を要求されることになる。
 右足に何%荷重する。左足に何%荷重する。膝関節をこの角度にする。骨盤をこの位置にする。脊柱をこの形にする。頭部をここに置く。呼吸に合わせて微調整する。
 実際の人間は、このような指令を逐一言語化しながら立っているわけではない。
 姿勢制御には、視覚、前庭系、固有感覚、皮膚感覚など多様な感覚情報が関与し、それらを基礎として身体は継続的な調整を行う。
 つまり、人間は姿勢を維持しているが、姿勢維持すべてを意識しているわけではない。ここに、姿勢制御と姿勢意識を区別する必要がある。


4.「意識する」とは、何をしているのか

 「姿勢を意識する」という言葉も、実際には曖昧である。
 何を意識しているのか。身体全体なのか。脊柱なのか。腹部なのか。肩なのか。頭の位置なのか。鏡に映った外形なのか。身体内部の感覚なのか。
 さらに、「意識する」だけなのか、「意識的に筋活動を変える」のかも異なる。
 例えば、「肩が上がっていることに気づく」ことと、「肩を下げ続ける」ことは同じではない。
 前者は身体状態の認知である。後者は身体状態への持続的介入である。
 したがって、身体へ気づくことと、身体を意識的に操作し続けることは区別しなければならない。


5.「意識」は有限の資源である

 人間が同時に意識的に処理できる情報には限界がある。
 歩きながら会話する。自動車を運転しながら標識を見る。スポーツをしながら相手の動きを読む。楽器を演奏しながら音を聴く。
 人間は複数の課題を処理しているように見えるが、その多くは学習と反復によって高度に自動化されている。
 もし身体運動の一つ一つを常に意識的に管理しなければならないとすれば、他の課題へ向けられる注意資源は減少する。
 ここで姿勢指導上の重要な問題が生じる。姿勢を意識するために、他に向けるべき注意を消費していないかという問題である。


6.野球選手は「姿勢」を考えながら打つのか

 例えば野球の打者を考えてみる。投手が投げたボールに対して、打者は極めて短時間に軌道、速度、回転、タイミングなどへ対応しなければならない。
 その瞬間に、「骨盤を立てよう」「背筋を伸ばそう」「肩を下げよう」「腹部に力を入れよう」と考えていたらどうなるだろうか。本来、外界へ向けるべき注意が、身体内部の操作へ分配される。
 格闘技でも同様である。相手が攻撃してくる瞬間に、自分の姿勢を言語的に確認している余裕はほとんどない。
 音楽家も同様である。ヴァイオリニストが演奏中、「肩をこの位置にして、肘をこの角度にして、背筋を伸ばして」と一つ一つ意識的に制御していれば、音楽そのものへの注意が妨げられる可能性がある。
 つまり、運動遂行において必要なのは、姿勢を考え続けることではなく、姿勢について考えなくても課題を遂行できる身体状態である。という視点が生まれる。


7.運動学習における「内的注意」と「外的注意」

 運動学習研究では、注意の向け方について、internal focus(内的注意焦点)と、external focus(外的注意焦点)という区別が研究されてきた。
 内的注意とは、自分自身の身体部位や身体運動へ注意を向けることである。例えば、「腕をこのように動かす」「膝をこの位置にする」という指示である。
 一方、外的注意とは、運動によって生じる外界への効果へ注意を向けることである。例えば、「ボールをそこへ運ぶ」「地面を押す」「対象物をこの方向へ動かす」といった指示である。
 Gabriele Wulfらによる一連の研究では、多くの運動課題において、身体部位そのものへ注意を集中させるinternal focusよりも、運動効果へ注意を向けるexternal focusの方が、運動遂行や学習に有利となる傾向が報告されている。
 これは、身体を意識すればするほど上手く動けるという単純な前提に疑問を投げかける。


8.意識的制御が自動制御を妨げる可能性

 なぜ身体内部へ過度に注意を向けると、運動遂行が低下する場合があるのか。
 一つの説明として、運動制御への過剰な意識的介入が、本来より自動的に組織化されている運動を拘束する可能性が考えられている。
 運動技能が熟練するにつれて、運動は一般に逐一の言語的制御を必要としなくなる。
 ところが、「ここをこう動かす」「この筋肉を使う」「この角度を維持する」と過度に意識すると、運動が細分化される。
 身体全体として一つに組織化されていた運動へ、意識が部分的に介入するのである。
 したがって、意識は身体を制御するための万能な上位司令塔ではない。
 意識的介入が有効な場面もあれば、むしろ自動的運動制御を妨げる場面も存在する。


9.「姿勢を意識する」は二重課題になり得る

 姿勢を意識しながら何かを行うことは、場合によっては二つの課題を同時に遂行している状態として考えることができる。
 例えば、課題A:歩くと、課題B:背筋を伸ばし続けることを意識するである。
 単に歩くのであれば、歩行制御に必要な多くの処理は自動的に行われる。
 しかし、「胸を張る」「腹部を締める」「顎を引く」「骨盤を立てる」など複数の意識的指示が加われば、歩行という課題に別の認知課題が重なる。
 ここで、姿勢を良くするために追加した意識が、運動全体の自由度を低下させていないかという問いが必要になる。


10.姿勢を「固定する」ことと「制御する」ことは違う

 「良い姿勢」を教える際、しばしば一つの理想形が提示される。そして、その形を維持することが求められる。
 しかし、生体における姿勢制御とは、本来、変化しないことではない。
 むしろ、変化できることによって成立している。外力が加わる。床面が変化する。視線が変わる。呼吸する。腕を動かす。歩き始める。
 これらに応じて、身体は絶えず姿勢を変化させる。
 したがって、姿勢の安定とは、固定ではなく、変化し続けられることによって成立する安定であると考えることができる。
 この意味では、「正しい形を保持し続けること」と「適切な姿勢制御」は同一ではない。


11.「正しい姿勢」という言葉が生む問題

 ここで「正しい姿勢」という言葉そのものについて考える必要がある。
 ある姿勢を「正しい」と定義すると、その形から外れた身体は「間違っている」と判断される。
 すると人は、正しい位置へ戻そうとする。胸を張る。顎を引く。腹部に力を入れる。肩を下げる。
 つまり、身体を正しい形へ修正し続けるという行為が生じる。
 しかし、身体が必要とする姿勢は課題によって異なる。
 静止して立つ姿勢と、走る姿勢は同じではない。重量物を持つ姿勢と、眠る姿勢も同じではない。格闘技の構えと、ヴァイオリンを演奏する姿勢も同じではない。
 したがって、一つの静止形態を「正しい姿勢」として普遍化することには限界がある。


12.姿勢は「結果」ではないのか

 ここで視点を反転させる。
 姿勢を、最初に作るべきものではなく、身体の構造・運動・環境との関係から結果として現れるものと考えたらどうなるだろうか。
 身体が適切に支持される。重力との関係が成立する。各身体部位が運動課題に応じて調整される。その結果として、ある瞬間の姿勢が現れる。
 この場合、「良い姿勢を作る」という発想そのものが変わる。
 姿勢を直接修正するのではなく、姿勢を生み出している身体条件を変えるという方向へ問題設定が移るからである。


13.「姿勢を意識しない身体」をつくる

 ここで一つの逆説が生じる。
 姿勢指導の最終目的が、姿勢を意識させることであるとは限らない。
 むしろ、姿勢を意識しなくても、必要な姿勢がその都度形成される身体状態を獲得することの方が重要なのではないか。
 初心者が新しい運動を学ぶ時、一時的に身体へ注意を向けることはある。しかし、その運動が学習され、自動化されれば、いつまでも同じ注意を向け続ける必要はない。
 これは姿勢についても同様に考えられる。
 意識は、身体を永続的に監視するために使うものではなく、身体について新たな感覚や運動を学習するための一時的な媒介として位置づけることができる。


14.「気づく」と「管理する」を区別する

 この観点からすると、身体意識そのものを否定する必要はない。
 むしろ重要なのは、気づくことと、管理し続けることを区別することである。
 肩が上がっていることに気づく。呼吸が浅くなっていることに気づく。身体が一方向へ偏っていることに気づく。こうした身体認識は、自らの状態を知るために有用である。
 しかし、「肩を常に下げておかなければならない」「腹部には常に力を入れておかなければならない」という持続的な管理とは別問題である。
 したがって、身体意識の目的は、身体を永続的に意識下へ置くことではなく、必要に応じて身体状態を認識し、その後のより自動的な身体制御へ繋げることにあると考えることができる。
 「意識すること」と「意識し続けること」は同じではない。この区別は、姿勢指導を考える上で極めて重要である。


15.意識は「入口」であって「居場所」ではない

 新しい身体運動を学習する時、意識は重要な役割を果たす。
 それまで認識していなかった身体部位に気づく。自分がどのように動いているのかを知る。これまでとは異なる運動を試みる。その際には、一時的に身体内部へ注意を向けることが必要となる場合がある。
 しかし、その運動を日常生活やスポーツの中で実際に使用する段階になっても、永続的に同じ意識を向け続けなければならないとすれば、その運動は十分に自動化されていない可能性がある。
 例えば歩行を考える。成人は通常、「右脚を出す」「左脚を出す」「右膝を曲げる」「左腕を振る」と逐一考えながら歩いてはいない。それでも歩行は成立する。
 むしろ、歩行中には目的地を見ることができる。人と話すことができる。周囲の交通状況を見ることができる。
 つまり、身体運動が自動化されることによって、意識は身体内部の逐次的制御から解放され、外界や運動目的へ向けられる。
 この意味において、意識は身体学習の入口にはなり得る。しかし、身体を永遠に意識の中へ閉じ込めておく必要はないのである。


16.「無意識にできる」は低次なのか

 現代では、「意識して行うこと」が高度で、「無意識に行うこと」が低次であるかのように語られることがある。
 しかし、運動技能については必ずしもそうではない。
 熟練したピアニストは、一音ごとに指の関節角度を計算しているわけではない。熟練した打者は、バットスイング中に一つ一つの筋活動を言語化しているわけではない。熟練した歩行者は、歩くたびに姿勢制御を考えているわけではない。
 むしろ熟練とは、多数の身体制御が自動化されることによって、意識をより高次の課題へ向けられる状態でもある。
 したがって、意識してできることだけではなく、意識しなくてもできることにも身体能力としての重要な意味がある。
 姿勢についても同様である。「姿勢を意識できること」よりも、姿勢を意識しなくても、課題に応じた姿勢制御が成立することの方が、実際の運動場面では重要となる場合がある。


17.意識を外せない身体

 ここから逆に考えてみる。「姿勢を意識して下さい」と言われた時だけ良い姿勢になる。意識を外した瞬間に元へ戻る。
 この状態を、姿勢が改善したと言ってよいのだろうか。
 意識によって一時的に外形を変えることには成功している。
 しかし、その形態を成立させるために常に意識的監視を必要としているのであれば、身体制御そのものが変化したとは限らない。
 これは、意識による補償と、身体そのものの学習を区別する必要性を示している。
 意識を向けている間だけ成立する姿勢と、意識を外しても成立する身体状態は同じではない。
 したがって姿勢指導の成果を評価する際にも、「意識すればできるか」だけではなく、「意識しなくてもできるようになったか」という視点が必要になる。


18.「姿勢を忘れられること」を目標にできるか

 ここから、姿勢指導について一見逆説的な目標を提示することができる。
 それは、姿勢を忘れられる身体をつくることである。
 姿勢を忘れるとは、姿勢を軽視するという意味ではない。
 姿勢について考えなくても、身体がその場の課題に応じて適応できる状態を意味する。
 立っている時には立位に適した身体状態が形成される。歩けば歩行に適した状態へ移行する。走れば走行に適応する。物を持てば、その負荷に応じて身体全体が変化する。
 その度に、「正しい姿勢に戻さなければ」と考える必要がない。
 この状態を目指すならば、姿勢教育の目的は、「正しい姿勢を覚えさせること」から、「姿勢を適応的に形成できる身体を育てること」へ変化する。


19.運動中の注意は、どこへ向けられるべきか

 運動中に姿勢への意識を減らすことができれば、注意は本来の運動課題へ向けられる。
 野球選手ならボールへ。格闘家なら相手へ。音楽家なら音へ。俳優なら相手役や空間へ。歩行者なら進行方向や周囲の環境へ。
 つまり、身体は身体自身の処理を担い、意識はその身体によって行おうとしている目的へ向かうという分業が成立する。
 これは「身体を全く意識してはいけない」という意味ではない。身体へ注意を戻す必要がある場面は当然存在する。
 新しい技能を学習する時。身体状態を確認する時。異常を感じた時。動作を修正する時。
 しかし、身体へ注意を向けることが常態化すれば、本来は外界へ開かれているはずの意識が、常に自己身体の監視へ使われることになる。
 ここに、「姿勢を常に意識する」という指導の限界がある。


20.姿勢は運動から独立して存在するのか

 ここまで考えると、そもそも「姿勢」と「運動」を別々のものとして考えることにも疑問が生じる。
 立位姿勢から歩行へ移る。歩行から走行へ移る。立位から座位へ移る。座位から立ち上がる。
 人間の身体は、姿勢と運動を絶えず行き来している。さらに、静止しているように見える姿勢そのものにも微細な運動が存在する。
 したがって、姿勢は運動の反対ではない。むしろ、姿勢とは、運動し続ける身体が、ある瞬間に成立させている一つの状態であると捉えることができる。
 この視点に立てば、「正しい姿勢」という一枚の静止画を身体へ当てはめること自体に限界があることが分かる。


21.姿勢は「名詞」ではなく「動詞」として考えられる

 言語的には、「姿勢」は名詞である。そのため我々は、姿勢を一つの「形」として認識しやすい。
 しかし生体現象として考えれば、姿勢は絶えず形成され続けている。呼吸する。揺れる。視線が変わる。荷重が変わる。外力へ応答する。運動へ移行する。その度に身体内部の関係は変化する。
 したがって身体論的には、姿勢を「あるもの」としてではなく、「絶えず成立し続けているもの」として捉える必要がある。
 言い換えれば、姿勢を名詞ではなく、動詞的現象として捉えるということである。
 「姿勢をつくる」のではなく、身体が姿勢している。
 このような見方へ転換すれば、姿勢は固定形態ではなく、身体活動そのものとして現れてくる。


22.「正しい姿勢」から「適応する姿勢」へ

 ここから、姿勢評価の基準そのものも変化する。
 従来の姿勢観では、正しい/間違っているという評価が中心になりやすい。
 しかし動的な姿勢観では、適応できる/適応しにくいという評価軸が重要になる。
 同じ姿勢を長時間保持できることよりも、状況が変われば変化できること。外力が加われば応答できること。動作が始まれば速やかに移行できること。課題が変われば、それに応じて身体状態を変えられること。
 この意味では、良い姿勢とは、一つの形に留まり続ける姿勢ではなく、必要に応じて別の姿勢へ移れる姿勢であるという考え方が可能になる。


23.姿勢指導は「形の指導」から「身体の学習」へ

 姿勢を動的に捉えるならば、姿勢指導の目的も変わる。
 鏡を見ながら、「ここを上げる」「ここを下げる」「ここを引く」という形態修正だけではなく、身体自身がどのように姿勢を形成しているのかを学習することが重要になる。
 つまり姿勢教育とは、正解の形を身体へ押し込むことではなく、身体がより多様な状況へ適応できる能力を獲得することとして再構成できる。
 その過程で意識を使用することはある。
しかし、意識は目的ではない。
意識は学習のための手段である。
 最終的には、意識によって身体を操作する段階から、身体そのものが学習した状態へ移行することが求められる。


24.「姿勢を意識する」という言葉を解体する

 以上を踏まえると、「姿勢を意識して下さい」という指示を、そのまま使用する前に、少なくとも次のことを区別する必要がある。
 何に注意を向けるのか。身体状態へ気づくことなのか。特定の部位を操作することなのか。一時的な学習なのか。持続的な管理なのか。静止形態を維持することなのか。運動課題へ適応することなのか。
 これらを区別せずに、「姿勢を意識することが大切です」とだけ言っても、身体運動としては十分な説明にならない。
 重要なのは、何を、何のために、いつまで意識するのか。

である。


25.意識から身体へ返す

 身体学習において意識が有用であるとしても、最終的には、その制御を身体へ返していく必要がある。
 最初は意識する。気づく。試す。失敗する。再び感じる。反復する。そして、やがて考えなくてもできるようになる。これは運動学習における極めて自然な過程である。
 したがって、意識とは、身体を支配するためのものではなく、身体が学習するまでの橋渡しとなり得るものと位置づけることができる。
 姿勢についても同様である。姿勢を意識する。しかし、いつまでも意識し続けることを目的にしない。最後には、姿勢を身体へ返す。のである。


結論――「姿勢を意識する」から、「姿勢を忘れられる身体」へ

 本稿では、「姿勢を意識する」という一般的な指導について、姿勢制御、注意、運動学習、自動化という観点から検討した。
 ここから導かれるのは、「姿勢を意識することは悪い」という単純な結論ではない。
 意識は必要である。身体状態へ気づくために必要となる場合がある。新しい身体運動を学ぶために必要となる場合もある。誤った習慣を認識する契機となることもある。
 しかし、意識が有用であることと、意識し続けることが望ましいことは同じではない。
 姿勢を意識し続けるためには注意資源が必要となる。そして、その注意は、本来向けるべき運動課題や外界から奪われる可能性がある。
 スポーツ選手が競技中に姿勢を考え続ける。音楽家が演奏中に姿勢を監視し続ける。俳優が演技中に肩や骨盤の位置を確認し続ける。歩行者が歩きながら「正しい姿勢」を維持し続ける。
 もし姿勢制御が常にそのような意識的監視を要求するならば、それは人間本来の姿勢制御のあり方とは異なる可能性がある。
 人間の身体には、姿勢を調整する能力がある。重力へ対応する。床面へ対応する。運動へ対応する。外力へ対応する。
呼吸へ対応する。そして、その多くは逐一言語化されることなく行われる。
 したがって、姿勢指導における一つの到達点は、「正しい姿勢を意識し続けられる人間」をつくることではない。むしろ、姿勢を意識しなくても、その時々に必要な身体状態を形成できる人間をつくることにあるのではないか。
 姿勢とは固定するものではない。姿勢とは、変化するものである。姿勢とは、運動と切り離された静止画でもない。
 身体が重力と環境と課題の中で、その瞬間ごとに成立させ続けている動的状態である。
 だからこそ、「姿勢を良くしよう」
と考える前に、「なぜ、この姿勢が生じているのか」を問わなければならない。
 そして、「姿勢を意識しよう」と指導する前に、「なぜ、この身体は意識しなければこの姿勢を成立させられないのか」を問う必要がある。
 姿勢を意識によって押さえ込むのではない。身体が姿勢を形成する条件そのものを見る。
 その条件が変化し、身体が学習すれば、意識はその役割を終えることができる。
 つまり、意識する。学習する。自動化するそして、意識を手放す。
 この過程こそ、姿勢教育において重要なのではないだろうか。
 最終的に目指すべきなのは、「姿勢を意識できる身体」ではない。「姿勢を意識しなくても動ける身体」である。
 そして、さらに言えば、良い姿勢とは、忘れることのできる姿勢である。
 姿勢を忘れた時、意識はようやく身体の監視から解放される。ボールを見ることができる。相手を見ることができる。音を聴くことができる。空間を感じることができる。そして、身体ではなく、世界へ意識を向けることができる。
 姿勢とは、そのために存在するものなのかもしれない。

身躰構造學研究所
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