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人は、いつから自分の身躰を
「管理されるもの」「治されるもの」だと
思い込むようになったのだろうか。
本来、身躰は
教え込まれる前に、
鍛えられる前に、
すでに在り方を知っている。
私が歩んできた道は、
新しい何かを手に入れる旅ではなかった。
失われていった感覚、
置き去りにされた身体の声、
そして「そもそも、どう生きていたか」を
一つずつ思い出していく過程だった。
このヒストリーは、
成功譚でも、自己啓発でもない。
むしろ、壊れ、迷い、立ち止まり、
それでも身躰に問い続けた
一人の人間の記録である。
身躰の根源に立ち返るとは何か。
その答えは、思想の中ではなく、
身躰そのものの中にあった。
― 身躰の根源へ向かう、最初の記憶 ― |
今、あらためて振り返ると、
私の身体への問いは、ずっと昔から始まっていた。
幼い頃、祖父から聞かされていたのは、
姿勢の大切さ、身体の話、
そして「昔の日本人は、こうだった」という話だった。
当時は深く理解していたわけではない。
だが、その言葉は、確かに身体の奥に沈殿していた。
小学生になると、父の影響を強く受けた。
父はトレーニングが好きで、
身体や鍛えることについて、日常的に語る人だった。
ドラゴンボールやジャッキー・チェンに夢中になり、
「自分自身を鍛える」という思想は、
この頃すでに自然なものとして育っていたように思う。
神社の境内で鍛えらえれた身躰感覚 |
小学低学年の頃、数年間、空手を習っていた。
道場は、神社の境内。
本殿へと続く石畳の上で型を行い、組み手をし、
拳立て、腹筋、背筋、
そして神社の三十二段の石段を使った兎跳びとケンケン。
今思えば、あまりにも象徴的な環境だった。
この時の体験が、後の身体研究に
決定的な影響を与えている。
なぜなら、
いくら兎跳びをしても、
いくらケンケンをしても、
まったく疲れなかったからだ。
「なぜ疲れないのか?」
この疑問が、まだ言葉にならないまま、
身体の奥に強く刻まれた。
サッカーと当たり負けの違和感 |
小学六年生の時、兄の影響でサッカー少年団に入った。
中学に進学してからも、三年間サッカーに明け暮れた。
だが、ここで人生を大きく変える
身体的な違和感に出会う。
私は人一倍身体が小さく、
当たり負けばかりしていた。
技術や経験はあり、
一学年上の先輩の試合にも出させてもらっていたが、
体格差の前では、どうしても吹き飛ばされる。
まずは筋力だと思い、
ダンベル、腕立て、逆立ち、腹筋、背筋。
筋トレも必死にやった。
確かに少しは強くなった。
だが、それでも当たり負けはなくならない。
体幹という言葉を知らずに、体幹に辿り着く |
そこで私は、
当時のサッカー界のスーパースターたちを
徹底的に観察するようになった。
マラドーナは小柄なのに、
なぜあれほど倒れないのか。
なぜ密集の中でも自由に動けるのか。
よく観察して、ある共通点に気づいた。
当時は「体幹」という言葉すら知らなかったが、
肋骨を含む胴体が、異様に柔らかい。
肋骨が、ぐにゃりと動く。
それは筋肉が柔らかいという次元ではなかった。
構造は分からない。
だが、私は見よう見まねで、
肋骨を動かす工夫を始めた。
すると、
当たり負けしなくなった。
それどころか、
相手の懐に、くるりと身体を翻して
入り込めるようになった。
この瞬間、
身体には「別の使い方」があることを、
体感で知った。
まぐれで起きる「異常な身体状態」 |
そして、もう一つ。
今の仕事に直結する、決定的な原体験がある。
練習や試合の中で、ごくまれに、
自分でも信じられない動きが
勝手に起きる瞬間があった。
・動きがスロー再生のように感じられる
・考える前に身体が勝手に動く
・意図していないのに、最高のプレーになる
だが、それは一瞬。
再現しようとすると、必ず消える。
私は強烈な興味を持った。
「この“まぐれ”は何なのか?」
「もし、これを常に再現できたら?」
その問いが、
身体能力研究の原点になった。
この“まぐれ”を、
偶然ではなく、
構造として、再現可能なものにできないか。
それが、
私のすべての探究の始まりだった。
武術家という在り方との邂逅 |
中学時代、
サッカーと並行して私を突き動かしていたのは、
ジャッキー・チェンへの強烈な憧れだった。
映画の中の彼は、
しなやかで、速く、軽やかで、
それでいて壊れない身体を持っていた。
私は、いわゆる「トレーニング」ではなく、
ジャッキーが映画の中で見せていた
身体の使い方そのものを真似るように鍛錬していた。
だが――
人生の軌道を決定的に変える出会いは、
その先に待っていた。
ブルース・リーとの出会い |
中学二年の終わり、あるいは三年の頃。
父から、こんな話を聞いた。
「ジャッキー・チェンの前に、
ブルース・リーという人物がいる。
彼は、ただの映画俳優じゃない。
本物の武術家だった」
最初に観たのは
『燃えよドラゴン』だったと思う。
衝撃だった。
だが、それ以上に運命的だったのは、その後だった。
父とレンタルビデオ店に立ち寄った際、
タイトルは今では思い出せないが、
一本のビデオテープが、
異様な存在感で目に留まった。
それは、映画スターとしてではなく、
武術家・研究者・思想家としての
ブルース・リーの生涯を描いた作品だった。
なぜか分からない。
だが、強烈に惹かれた。
「これは観なければならない」
そう直感した。
研究者としての武術家 |
そのビデオを観た瞬間、
私の中の世界は、静かに、しかし完全に変わった。
そこに映っていたのは、
派手なアクションスターではなかった。
・自らの身体を徹底的に研究する姿
・武術を盲信せず、分解し、再構築する姿
・ワシントン大学哲学科で学び、
思想と身体を結びつけようとする姿
古今東西の武術、格闘技、思想を柔軟に吸収し、
最終的に「ジークンドー」という
独自の武術体系を創始した男の姿だった。
その瞬間、
胸の奥が震えた。
「ああ、こういう在り方があるのか」
体系を“創る”という衝動 |
私はそのとき、
はっきりと思った。
「自分も、いつか――
どんな形になるかは分からないけれど、
身体についての独自の体系を築きたい」
強く、確かな感情だった。
誰かに教わるだけではない。
誰かのコピーでもない。
自分の身体と人生を通して、
体系そのものを創る側に立ちたい。
この想いこそが、
後に「立腰体操」を
創始・開発することになる
思想の原点である。
身躰を壊した者だけが辿り着く問い |
中学三年の頃、
世はK-1全盛の時代へと向かっていた。
ブルース・リーとの出会い以降、
私の中で「身体」は、
ただ鍛える対象ではなく、
研究する対象へと変わっていた。
当時、今はもう残っていないが、
ルーズリーフノートに、身体についての考察を書き留めていた。
その中には、こんな定義がある。
・力を入れること=入力
・力を抜くこと=抜力
・力を出すこと=脱出力
今思えば、
「力を入れること」と
「力を発揮すること」が
まったく別物であるという事実に、
すでに触れていたのだと思う。
格闘技への没入 |
三年間サッカーに明け暮れ、
ブルース・リーという存在に強烈な衝撃を受けた私は、
高校に進学したら、
格闘家を目指そうと決めた。
だが――
ここからが、暗黒の高校時代である。
高校から、
キックボクシング、総合格闘技に打ち込むようになった。
上には、上がいる。
強くなりたいという欲求は、
次第に異常なほど膨れ上がっていった。
「パワーで、何階級も上の相手に勝てるようになってやる」
その一心で、
私は自らに猛烈な鍛錬を課した。
今、冷静に振り返っても、
それは壮絶としか言いようがない。
・腕立て伏せ 1000回
・腹筋・背筋 各1000回
・懸垂 200回
・ヒンズースクワット 1000回
これを毎日。
二年間、ぶっ続けで行った。
さらに、
片手30kgのダンベルに錘を追加し、
約60kgにした特製ダンベルで
ウエイトトレーニングも行った。
身体を大きくしたかったため、
食事量も徹底的に増やした。
白飯は毎食、丼三杯。
当時まだ一般的ではなかったプロテインも、
自作して摂取していた。
半年から一年で、
体重は10〜20kg増加。
筋肉についても、
やたらと勉強した。
結果、
パワーだけなら誰にも負けない身体になった。
ヘビー級クラスの相手にも、
力で勝てるほどになり、
腕相撲でも負けた記憶はない。
身躰の崩壊 |
しかし――
構造に従わず、
理を無視して課した鍛錬は、
必ず代償を伴う。
ある日を境に、
身躰は、音を立てて崩れ始めた。
・異常な怠さ
・体調不良
・不整脈
・動悸・息切れ
・重度の喘息
・重度の腰痛
・椎間板ヘルニア
・背中の激痛
・アレルギー症状
精神的にも、完全に落ちた。
鬱状態だったと思う。
高校生でありながら、
朝、起き上がるだけで
一時間半から二時間。
背中が固まりきり、
激痛で動けなかった。
もう、
格闘技どころではない。
「動けない身体」になっていた。
身も心も、
完全に崩壊していた。
だが――
この崩壊こそが、
後に私の仕事へと繋がる
最大の転機となる。
「自分で治す」という決断 |
整体にも通った。
だが、まったく良くならない。
ある日、
整体のおじいちゃん先生に言った。
「全然、治らないです」
すると返ってきた言葉は、
今でも忘れない。
「なんでワシが治さなアカンねん!
お前が悪くしたくせに!」
……笑
だが、その瞬間、
私は初めて気づいた。
「ああ、確かに。
これは、俺のせいやな」
そして、
こう決めた。
「よっしゃ。
じゃあ、自分で治したろう。
自分で治すしかない」
呼吸と回復の原体験 |
最初に取り組んだのは、
当時、たまたまおばあちゃんの家で目にした
『家庭の医学』に載っていた呼吸法だった。
仰向けに寝て、
お腹の上に本を置く。
本を持ち上げるように息を吸い、
本が下りてくるように息を吐く。
吐くときは、
ろうそくの火を消すように
「フゥー」と、ゆっくり、長く。
すると――
あれだけ苦しかった喘息の発作が、
初日から起こらなくなった。
それ以来、
夜になると必ず呼吸法を行った。
二〜三週間ほどで、
呼吸法をしなくても
発作は完全に消えた。
そして同時に、
背中の激痛が
わずかずつ和らいでいくのを感じた。
軟酥の法との出会い |
次に取り組んだのが、
白隠禅師の「軟酥(なんそ)の法」だった。
呼吸器系疾患、神経症、不眠、頭痛、痛みに効く――
そんな記述を読んだのがきっかけだった。
軟酥の法は、
いわゆる「寝禅」。
呼吸とともに、
意識を身体全体へ巡らせていく方法で、
当時の私には、無理なく続けられた。
来る日も来る日も、
ただ、続けた。
すると、
薄皮を剥ぐように、
少しずつ、確実に、
身躰は変わっていった。
夜、眠れるようになり、
頭痛が消え、
朝、スッと起き上がれるようになった。
健康になる喜び |
この変化は、
本当に嬉しかった。
今でも、はっきりと言える。
病気だった人ほど、
健康になる喜びを知っている。
劇症だった人ほど、
ほんのわずかな回復が、
この上なく幸せに感じられる。
この実体験こそが、
「健康になる」ということの
本当の意味を、
私に教えてくれた。
そして、この体験が、
今の仕事へと繋がる
揺るぎない原点となっている。
大学時代、もう一つの扉が開いた |
格闘家の夢を手放した私は、
「普通に大学に行き、普通に就職しよう」と考えた。
勉強は、正直ほとんどしていなかった。
そこで担任の先生に相談し、
自分の学力でも入れそうな大学を受験することにした。
選んだ学科は、アラビア語学科。
理由は単純で、
身体以外で、唯一ほんの少し興味があったのが語学だったからだ。
英語の成績は悪くなかった。
だが英語の先生はこう言った。
「大学で語学をやるなら、英語はやめとけ。
英語は入学した時点で差がついている。
誰もやったことがない言語をやった方がいい」
調べてみると、
アラビア語学科があり、
なおかつ自分でも受験できそうな大学があった。
それが――
仏教大学だった。
仏教大学に入りたかったわけではない。
仏教に興味があったわけでもない。
アラビア語を学べる場所が、
たまたま仏教大学だっただけだ。
だが、今思えば、
これもまた必然だったのだと思う。
瞑想との邂逅 |
仏教大学では、
毎週木曜日、大学キャンパス中央の大講堂で、
• 瞑想
• 写経
• 講和
を行う時間が義務化されていた。
正直、興味はなかった。
だが、不思議と居心地は悪くなかった。
後になって思い出す。
――そういえば、
幼い頃、祖父からお経の話を聞いていたな、と。
ある木曜日。
大講堂での瞑想中、
私ははっきりとした異変を体験する。
当時、大学に通えるほどには回復していたが、
背中の痛みはまだ残っていた。
瞑想を始めて、しばらく経った頃。
背中の痛みのある一点が、
急に熱を帯び始めた。
次の瞬間、
その痛みが――
スーッと抜けていった。
瞑想が終わった後も、
背中は軽いままだった。
「……なんだ、今のは?」
この問いが、
現在のフィジカリストとしての私へと繋がる
決定的な橋となる。
疑問を持ったら、
追究せずにはいられない性分だ。
その日から、
大学図書館に籠もり、
瞑想に関する文献を片っ端から読み漁った。
意識の探究、そして過剰な実践 |
当時はちょうど、
「脳力開発」にも興味を持っていた。
様々な脳トレを行い、
高校時代に無理をして増やしすぎた体重を落とし、
負担をかけた内臓を癒すため、断食も始めた。
今でこそ「ファスティング」という言葉が一般的だが、
当時はまだ、ほとんど知られていない時代。
大学生でありながら、
• 昼食は摂らず
• 水だけで過ごし
• ほぼ一日一食
という生活を続けていた。
その結果、
記憶力、特に短期記憶が異様に高まり、
アラビア語の習得にも大いに役立った。
だが――
それ以上に、
私を惹きつけたのは瞑想だった。
宗教・行法への没入 |
瞑想を起点に、
・仏教
・釈迦とその思想
・ヨガ
・気功
・太極拳
・古武術
・密教
・各種宗教的行法
へと、興味は連鎖的に広がっていった。
気功は毎日行い、
瞑想は一日五時間、必ず行った。
中でも、最もやり込んだのが、
弘法大師空海が修したとされる
求聞持聡明法
(正式名:
仏説・虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法)
記憶力と聡明さを高めるとされる瞑想法だ。
来る日も、来る日も、
ただ続けた。
再び起きた「異変」 |
そんなある日。
瞑想中に、再び異常な体験が起こる。
突然、
身体の内側で――
ドンッ
と、強い振動が走った。
次の瞬間、
何かが打ち上げ花火のように、
ゆっくりと身体の中を駆け上がっていく。
腹底から、胸へ、喉へ、
そして頭頂部へ。
頭頂部から抜け出そうとした瞬間、
ミシミシッ
と、音がした。
感覚としては、
頭頂部が割れるような感じだった。
「……なんだ、今のは?」
だが、瞑想は終わっていなかった。
そのまま続けた。
すると、
また同じことが起きた。
それでも、
最後まで瞑想を終えた。
身躰が先に答えを出した |
瞑想後、
恐る恐る頭頂部に触れてみた。
すると――
そこがぷくっと膨れ上がり、盛り上がっていた。
主観的体験であることは、
重々承知している。
だが、
触れて分かる変化が、
確かにそこにあった。
そして、
その日以来。
私の頭頂部は、
ずっと膨れたままである。
(笑)
治った、その先へ |
瞑想だけでなく、
私は武術の実践研究にも没頭していった。
「こんな武術の達人がいる」と聞けば、
実際に会いに行き、
学び、教えを乞うた。
武術の伝書も、
手に入る限り読み漁った。
気がつけば――
あれほど苦しんでいた背中の痛みは、
完全に消えていた。
それどころか、
高校時代以前よりも、
はるかに動ける身躰へと変貌していた。
この頃、世は2000年ミレニアム。
9.11同時多発テロが起こり、
イチロー選手が海を渡り、
メジャーリーグで躍動し始めた時代。
時代の大きな転換期と重なるように、
私自身の身体探究も、
最高潮を迎えていた。
「鍛える」から「目醒める」へ |
高校時代の身体追究は、
明らかに「鍛える系」だった。
大学時代の身体追究は、
「治す系」、
そして「開発する系」へと変わっていた。
今、立腰体操や王子の思想が、
・体育(運動)
・治療(整体)
この二つのジャンルを融合したものになっているのは、
間違いなくこの体験の影響が大きい。
身躰はあらゆる分野に偏在していた |
大学時代、私は――
瞑想・ヨガ・気功・太極拳・古武術にとどまらず、
・古今東西の身体技法
・ボディーワーク
・体操法
・修行法
を実践研究した。
それだけではない。
・演劇
・歌舞伎
・能
・狂言
・落語
・漫才・漫談
これらが身体とどう関係しているのかも、
徹底的に観察し、研究した。
さらに、
・東洋医学
・東洋思想全般
・各宗教思想の分析と比較
・人類学
・比較文化論
・日本文化論
そして、
・ヘラクレイトス
・プラトン
・アリストテレス
・ソクラテス
・デカルト
・カント
・ニーチェ
・フッサール
・メルロ=ポンティ
といった西洋哲学の視点からも、
身体に光を当て、考察を重ねた。
心理学、進化論、生物学、宇宙論――
あらゆるジャンルから、
身体を紐解こうとした。
当然、
解剖学・生理学・運動学も研究した。
勉強が好きになったのではない |
思い返せば、
「勉強」というものに本気で取り組んだのは、
大学に入ってからだった。
それまで、
ほとんど勉強などしてこなかった。
本も、ほとんど読んだことがなかった。
それが大学に入るや否や、
失われた時間を取り返すかのように、
猛烈に勉学に励み、
読書に耽った。
当時の読書量は異常で、
一日に10冊読むことも珍しくなかった。
だが、
それは勉強が好きになったからではない。
身体という異常な興味が、
私を突き動かしていただけだ。
そして、ひとつの結論へ |
これほどまでに身体を追究し、
私は、ある一点に辿り着く。
武術も、
ヨガも、
気功も、
太極拳も、
身体技法も、
ボディーワークも、
整体も、
宗教的行法も――
目指す方向は違って見えても、
やってみれば分かる。
共通点がある。
そして、
どの分野にも必ず、
・上手くいく人
・上手くいかない人
が存在する。
その違いは何か?
追究し続け、
私が出した結論は、これだった。
⸻
・身体を構造通りに使う
・身体の構造に随う
・身体の構造に目醒める
結局、すべては――
ここに帰結する。
方法論は違えど、
本質は同じだった。
身体が、
構造通りに動くようにすること。
それだけだった。
身躰構造學の萌芽 |
このとき、
私は悟った。
解剖学を、
頭で覚えるだけでは意味がない。
解剖学者になるつもりがない限り、
知識としての解剖学は、
身体を変えてはくれない。
解剖学や生理学は、
身体で理解して初めて意味を持つ。
この気づきが、
後に私が辿り着く
身躰構造學
という考え方へと繋がっていく。
動ける身躰が、修行を加速させた |
大学時代は、
今の私のマニアックさを形づくった
最初の時代だった。
それは勉学だけではない。
身体開発、鍛錬、修行――
そのすべてが、
常軌を逸した密度で行われていた。
⸻
体幹部、とりわけ肋骨が
グニャグニャと言っていいほど柔らかくなったことで、
スタミナが異常なほど向上した。
ロードワークは、
一日三時間以上。
坂道ダッシュは当たり前。
しかも、上りだけではない。
下りの坂道ダッシュ。
これは本当に危険だった。
足が絡まり、
制御が追いつかず転ぶこともあった。
何度も、
崖に落ちそうになった。
山道を走り回る
トレイルランニングも、
何時間やったか分からないほど行った。
そして、
走っては止まり、
止まってはシャドーで突きや蹴りを放ち、
また走り出し、
そして瞑想する。
身躰を自然に投げ込む |
木に登り、
木から飛び降り、
枝から枝へ、
木から木へと飛び移る。
ロープの上を
綱渡りのように歩く。
山頂の手すりの上を、
平均台のように端から端まで歩く。
片足でしゃがみ、
また立ち上がる。
その向こうは崖。
落ちれば、命はない。
そのスリルの中で、
身躰を使い切った。
ロープ、鉄棒、吊り輪…
使えるものはすべて使った。
自転車にも乗った。
急勾配の坂道を、
尻を上げずに登り切る鍛錬。
「立つ」ためのアルバイト |
生活のために、
アルバイトもした。
選んだのは、
ベルトコンベアの前に立ち続ける
工場の仕事。
理由は、
立ち方の追究。
長いときは、
16時間勤務。
考えていたのは、ただ一つ。
どうすれば、疲れずに立ち続けられるか。
それだけだった(笑)
それで給料まで貰える。
これ以上、
幸せな環境はなかった。
武術への没入 |
武術の稽古も、
時間の許す限り行った。
抜刀。
素振り。
体位変換。
体術。
とにかく、
身躰を使い切る。
気がつけば、
高校時代の自分が嘘のように、
羽が生えたかのような身躰になっていた。
あり得ないほど、
動ける身躰。
⸻
しかし――
だが、
人生はここで終わらない。
この後、
私は再び地獄を見ることになる。
