失われた日本人の歩行とは何か
―「ナンバ歩き」論を超えて、体幹部の前方移動から歩行文化を再考する
要旨
近世以前の日本人の歩行をめぐっては、しばしば「ナンバ歩き」という語によって、その特殊性が説明されてきた。しかし、「ナンバ歩き」という現代的カテゴリーによって過去の日本人の歩行様式を一括して説明することには、歴史学的にも身体運動学的にも慎重な検討を要する。
本稿では、近世以前の日本人に特殊な「秘伝の歩法」が存在したという立場を採るのではなく、より根本的な問題として、歩行時に身体全体をいかに前方へ移動させていたのかという観点から日本人の歩行を再考する。
身躰構造學の観点からは、歩行を単なる下肢の交互運動としてではなく、大腿骨の運動と、脊柱・肋骨・骨盤・頭蓋骨等から構成される体幹部との関係によって成立する全身運動として捉えることができる。
本稿では、この観点から「体幹部を前方へ運ぶ歩行」という概念を提示し、現代日本人の歩行との相違、日本文化に内在していた身体技法との関係、さらに近代化に伴う生活様式・身体教育の変容について考察する。
1.日本人は、どのように歩いていたのか
近世日本において、歩行は日常生活を成立させる主要な移動手段の一つであった。
徒歩による移動が現在よりも遥かに重要な位置を占めていた社会では、庶民を含む多くの人々にとって、長距離を歩くことそれ自体が日常生活の延長線上に存在していたと考えられる。
街道交通、巡礼、参詣、商業活動、飛脚等を検討すれば、日本人の歩行能力を示唆する歴史資料は少なくない。
ただし、ここで重要なのは、「昔の日本人はたくさん歩いた」という事実を確認することだけではない。
身体研究として問うべきなのは、「彼らは、どのような身体運動によってそれだけの距離を移動していたのか」という問題である。
歩行距離の記録だけでは、歩行様式そのものを直接復元することはできない。
したがって、歴史的歩行能力の問題と、具体的な身体技法の問題は区別して検討する必要がある。
1-2.近世の旅人は、一日にどれほど歩いたのか
近世日本人の歩行を身体運動の問題として考える上で、まず確認しておく必要があるのは、当時の徒歩移動がどの程度の距離に及んでいたのかということである。
国土交通省関東地方整備局が東海道の旅程について整理した資料によれば、江戸から京都へ向かう成人男性の場合、日本橋を出発した初日の宿泊地として保土ヶ谷宿あるいは戸塚宿が想定され、日本橋から保土ヶ谷宿までは約33km、戸塚宿までは約42kmであった。これをもとに、江戸時代の旅人の一日の行程は、およそ32〜40km程度であったとされている。歩行速度を時速4kmとすれば、8〜10時間程度を歩行に費やすことになる。
東海道そのものも、江戸・日本橋から京都・三条大橋まで約492kmに及び、その間には53の宿場が設けられていた。したがって長距離旅行とは、単日に長距離を歩くことではなく、相当な距離の徒歩移動を複数日にわたって継続する行為であった。
ただし、この数値をもって「江戸時代のすべての庶民が日常的に一日30〜40km歩いていた」と一般化することはできない。街道旅行における一日行程と、日常生活における平均的な歩行量とは別の問題だからである。
それでも、成人男性による街道旅行において、一日30〜40km規模の徒歩移動が旅程として成立していたことは重要である。
身体研究としてさらに注目すべきなのは、その距離を一度だけ歩いたという事実ではない。翌日も、その翌日も歩かなければ旅は成立しないということである。
したがって問うべきなのは、単純な最大歩行距離ではない。
長距離を連日移動し得る身体とは、どのような歩行運動によって成立していたのか。
ここに、歴史的事実と身体運動学とを接続する研究課題が生じる。
1-3.参詣・巡礼という「庶民の長距離歩行」
近世の長距離徒歩移動を考える際、飛脚のような専門的移動者だけを取り上げることには注意を要する。飛脚は高速輸送を担う職能的存在であり、その移動能力をそのまま一般庶民の歩行能力とみなすことはできない。
一方で、伊勢参宮をはじめとする参詣・巡礼の記録は、一般の人々による長距離徒歩移動を考える上で重要である。
実際、各地には伊勢参宮の道中記が残されている。例えば伊万里地域についても、「寛政元年伊勢参宮幷西国丗三所巡礼道中記」「伊勢道中小遣控帳」「道中日記帳」等の古文書が現存することが確認されている。
こうした道中記の価値は、単に「伊勢まで歩いた」という事実にあるのではない。出発地、宿泊地、日程、経路等を追跡することによって、実際の一日行程を復元できる可能性があることにある。
したがって、近世日本人の歩行能力をより厳密に検証するためには、飛脚・旅人・参詣者を一括して論じるのではなく、それぞれを区別した上で、複数の道中記から日別移動距離を比較する必要がある。
そして、その歴史的歩行量が明らかになったとしても、それだけで歩行様式が判明するわけではない。
史料が示し得るのは、主として「どれほど移動したか」である。
本稿が身躰構造學から問うのは、その先にある、
「その距離を、どのような身体運動によって移動したのか」という問題である。
1-4.飛脚の速達性を、個人の走行能力と混同してはならない
近世日本人の移動能力を論じる際、しばしば飛脚の驚異的な速達性が引き合いに出される。国土交通省関東地方整備局の東海道資料によれば、江戸から京都まで約492kmの行程を、幕府公用の継飛脚はおよそ3〜4日で結んだとされる。通常の徒歩旅行では約2週間を要する距離であり、その輸送速度は極めて高い。
しかし、この事実をもって、「一人の飛脚が約492kmを3〜4日で走破した」と理解することはできない。
幕府の継飛脚は、東海道の宿駅制度に組み込まれた通信制度であった。各宿場では公用書状や荷物を次の宿場へ送り届ける役割が担われ、原則として人馬は一つの宿を越えてそのまま走り続けるのではなく、次宿で継ぎ立てられた。国土交通省の宿駅制度に関する資料にも、幕府公用使の継飛脚は宿の負担によって運用され、人馬を次宿へ継ぎ立てることが原則であったことが示されている。
したがって、江戸―京都間3〜4日という数字が示しているのは、一人の人間の連続走行能力ではなく、宿駅ごとに人員を交替させながら高速で情報を輸送する「継走システム」全体の性能である。
この区別は、近世日本人の身体能力を考察する上で極めて重要である。
輸送制度としての速度と、一人の身体が一日に移動し得る距離とは、同一の尺度ではないからである。
飛脚の存在は、近世日本に高度な長距離通信網が成立していたことを示す。しかし、その輸送速度をそのまま個々の飛脚の一日走行距離へ換算することはできない。
むしろ研究上必要なのは、飛脚という語の内部に存在する複数の職能と制度を分けることである。
江戸期には、幕府公用の継飛脚のほか、大名飛脚、町飛脚、定飛脚、早飛脚、仕立便、走り飛脚など、多様な形態が存在した。近年の飛脚研究でも、三都の飛脚問屋、並便・早便・仕立便、宰領飛脚と走り飛脚、幕府継飛脚や大名飛脚などを区別して検討する必要性が示されている。
更に民間の定飛脚においては、輸送速度は人間の走力だけでは決まらなかった。宿駅で利用する馬の不足、道路の損傷、天候等によって輸送が遅延したことが、飛脚問屋側の史料から確認できる。延享4(1747)年の定飛脚問屋による願書には、東海道の宿々で馬が不足し、場所によっては十日余り滞留する事態が記されている。
この事実からも、飛脚輸送とは単純な「人間が速く走る技術」ではなく、人足、馬、宿駅、問屋、道路、天候等から構成される複合的な交通システムであったことが分かる。
したがって、飛脚を日本人の歴史的身体能力の資料として用いる場合には、少なくとも、
誰が走ったのか。どの区間を走ったのか。一人で走ったのか、継走であったのか。徒歩か馬か。どの種類の飛脚であったのかを区別しなければならない。
その上で尚、飛脚は身体研究にとって極めて興味深い存在である。
なぜなら、制度としての継飛脚とは別に、実際に街道を走り、荷物を運び、一定区間を反復して移動した「走り飛脚」という身体職能が存在していたからである。近年の研究書でも、「飛脚の走り方」「走りの職人」といった項目が独立して扱われている。
ここで初めて、身躰構造學としての問いが成立する。
彼らは一日何km走ったのか、ではなく、どのような身体運用によって、反復的な長距離移動を職業として成立させていたのか。
飛脚研究を歩行文化論へ接続する際には、速達記録の数字そのものよりも、この問いの方が重要である。
飛脚の速さは、一人の超人的身体能力によって成立したのではない。身体と宿駅と人馬と街道とが連結された交通構造によって成立した。その構造の中で実際に走った身体を、改めて身躰構造學の対象として問う必要がある。
1-5.飛脚を「速さ」ではなく「移動身体」として研究する
飛脚については、江戸―京都間を何日で結んだのかという速達記録が注目されやすい。しかし、日本人の歴史的身体運用を検討するという本稿の目的からすれば、輸送に要した総日数だけでは十分ではない。
必要なのは、飛脚制度全体の輸送速度と、実際に街道を移動した一人の人間の身体運動とを区別することである。
そのためには、飛脚を単に「速く走った人」として捉えるのではなく、近世交通制度の内部に存在した「移動身体」として研究対象化する必要がある。
飛脚研究には、既に重要な基礎史料が存在する。児玉幸多校訂『近世交通史料集 7 飛脚関係史料』には、江戸の代表的な飛脚問屋の記録である「嶋屋佐右衛門家声録」をはじめ、「定飛脚発端旧記」など、町飛脚に関する多数の史料が収録されている。国立国会図書館も、これらを近世交通史研究上の基本史料として位置づけている。
また、『通運史料江戸定飛脚問屋』も国立国会図書館に所蔵・デジタル化されており、近世の定飛脚問屋を具体的に検討するための史料的基盤が存在する。
更に、東京都公文書館の『東京市史稿』には、「京大坂定飛脚問屋名目許可」「早飛脚出立刻限改定」「飛脚十七屋店近江屋一手引受」「三井江戸店飛脚屋交代」など、飛脚の制度・営業・運用に関する史料項目が確認できる。そこでは「定飛脚発端旧記」や「島屋佐右衛門家声録」等も典拠として用いられている。
こうした史料群を身体研究へ接続するためには、従来の交通史的関心に加え、別の問いを設定する必要がある。
即ち、一人の飛脚が実際に担当した区間はどこからどこまでであったのか。どこで交替したのか。徒歩と馬はどのように使い分けられたのか。何を、どれほど携行したのか。一日のうち何時間移動したのか。そして、その移動を反復する身体には、どのような走行・歩行技術が要求されたのか。
これらの情報を史料から抽出することができれば、「江戸―京都間を何日で結んだか」という通信制度全体の速度とは別に、個々の移動者が担った身体活動そのものを復元することが可能になる。
ここで重要なのは、飛脚を近世日本人一般の代表として扱わないことである。
旅人、参詣者、継飛脚、走り飛脚では、移動の目的も、距離も、速度も、反復性も異なる。それらを「昔の日本人」という一つのカテゴリーへ統合してしまえば、かえって当時存在した多様な移動身体が見えなくなる。
したがって、本稿では近世の移動身体を、少なくとも次のように区別して考える必要がある。
旅人―複数日にわたる長距離徒歩移動
参詣者―庶民生活の延長として行われた長距離徒歩移動
継飛脚―宿駅・人馬・継立によって成立する高速通信制度
走り飛脚―一定区間の移動を職能として反復する専門的移動身体
この区別によって初めて、「昔の日本人は飛脚のように走ることができた」という包括的な理解から離れ、それぞれ異なる条件のもとに成立していた身体運用を個別に検討することができる。
これは、歩行史を単なる移動距離の歴史としてではなく、異なる生活・職能・制度の中で形成された複数の「移動身体」の歴史として捉え直す試みでもある。
そして身躰構造學にとって最も重要なのは、その先である。
史料から移動距離、担当区間、荷重、交替、速度等を可能な限り復元した上で、そこで要求された身体運動を検討する。
即ち、どれだけ速かったのかではなく、どのような身体で移動していたのか。
この問いへ移行することで、飛脚は単なる近世交通史の対象ではなく、日本人の歴史的歩行・走行文化を考察するための身体史的資料となるのである。
歴史資料から過去の歩き方を直接推定するのではなく、まず歴史資料によって「移動の実態」を復元し、その実態を成立させ得た身体運動の条件を身躰構造學から問う。そこに、歴史資料と身体研究とを接続する本稿の方法論的立場がある。
2.「ナンバ歩き」という説明は十分なのか
近世以前の日本人の歩行を説明する際、現在しばしば用いられるのが「ナンバ歩き」である。
一般には、同側の上肢と下肢を協調させる、あるいは身体の捻転を抑制して歩くといった特徴が「ナンバ」として説明されることがある。
しかし、「江戸時代の日本人はナンバ歩きをしていた」という説明によって、当時の多様な歩行を一つの様式へ還元してよいのかについては、慎重でなければならない。
更に、「ナンバ歩き」という名称そのものと、それによって現在説明されている運動様式とを、歴史上の日本人が自覚的・統一的な歩行技法として実践していたのかという問題も、別途検証を必要とする。
したがって本稿では、近世以前の日本人に一律の「ナンバ歩き」が存在したことを前提としない。
むしろ、「ナンバであったか否か」という分類そのものから一度離れる。その上で、歩行という運動そのものを身体構造から再検討する。
3.歩行とは「脚を前へ出すこと」なのか
現代において歩行は、しばしば「脚を前へ出して身体を移動させる運動」として理解される。
しかし、身体全体の移動という観点から考えるならば、歩行の本質は必ずしも「脚を前方へ運ぶこと」だけにはない。
歩行によって最終的に前方へ移動しなければならないのは、身体全体である。
そこで身躰構造學では、歩行を、「体幹部を前方へ運ぶ運動」として捉え直す。
ここでいう体幹部とは、単に一般的な意味での「体幹筋群」を指すものではない。脊柱、肋骨、骨盤、頭蓋骨等を含む身体中央部の構造的総体を意味する。
脚を前方へ振り出すこと自体が歩行の目的なのではない。下肢と地面との関係を利用しながら、身体中央部そのものが前方へ移動し続けること。この観点から歩行を再構成する必要がある。
4.「足で体幹を運ぶ」のか、「体幹が足を運ぶ」のか
この違いを概念的に表現するならば、現代的な歩行には、「足で体幹部を運ぶ」という運動様式が強く現れる場合がある。
これに対し、本稿が仮説的に提示するのは、「体幹部が足を運ぶ」或いは、さらに正確には、「足と体幹部が分離せず、一体として前方移動する」歩行である。
これを本稿では暫定的に、「足體一致」と表現する。
重要なのは、脚が受動的であるという意味ではない。また、体幹だけを意図的に前方へ倒すことでもない。
下肢と体幹部を別々の運動単位として操作するのではなく、両者の相互関係によって全身の前方移動が成立するという考え方である。
5.大腿骨伸展と体幹部の前方移動
この問題を解剖学的な運動へ置き換えると、大腿骨と骨盤との関係が重要となる。
歩行周期において股関節伸展は身体の前方移動と関係する。
しかし、「股関節を伸展する」という表現だけでは、実際に何がどのように運動しているのかは十分に表現できない。
股関節は独立した物体ではない。寛骨と大腿骨によって形成される関節である。
したがって、歩行時の「股関節伸展」を理解するためには、大腿骨と寛骨との相対的運動として捉える必要がある。
身躰構造學の観点から本稿が注目するのは、この大腿骨―寛骨関係が、さらに骨盤・脊柱・肋骨・頭蓋骨を含む身体全体の前方移動へどのように接続するかという問題である。
即ち、大腿骨を適切に伸展させることによって、体幹部を効率的に前方へ移動させる。
これを、失われた日本人の歩行を考察するための一つの身体運動学的仮説として提示したい。
6.特殊な秘技ではなく、「普通の身体運用」であった可能性
過去の日本人の身体能力を論じる際、時に「失われた秘術」「古武術特有の身体操作」といった説明がなされる。
しかし、本稿では別の可能性を考えたい。即ち、特別な能力を有していたのではなく、身体が本来有する構造的条件を、日常生活の中で現在よりも活用していたのではないかという仮説である。
もしそうであるならば、問題は「昔の日本人だけが知っていた特殊技法を復元すること」ではない。
身体構造そのものは、現代人にも存在している。
したがって問うべきなのは、特殊な技法を獲得することではなく、既に存在している身体構造をどこまで運動に参加させることができるかということである。
7.日本文化を「身体の形」として読む
ここから、本稿は歩行という個別運動を超えて、日本文化と身体との関係へ視野を広げる。
日本には、正坐、蹲踞、礼法、着物、履物、畳上の生活、農作業、武術、芸能、祭礼等、身体の特定の使い方を伴う文化が多数存在する。
これらを単なる生活様式・作法・伝統として見るだけではなく、身体運用を反復的に形成する「形(カタ)」として捉えることはできないだろうか。
文化は身体の外部にのみ存在するものではない。ある文化を日常的に実践することによって、その文化に適応した身体運動が反復される。
この意味において、文化は身体を形成し、身体は文化を実践する。両者は相互的な関係にある。
8.「日本文化とは、身体を構造通りに使う形である」という仮説
身躰構造學から、さらに一歩踏み込んだ仮説を提示したい。
それは、日本文化には、身体を構造的に運用するための「形」が内在していたのではないかというものである。
これは「すべての日本文化が解剖学的に最適である」という意味ではない。そのような主張には個別の実証が必要である。
本稿が問題提起するのは、長期間にわたって形成された生活文化の中に、身体構造と環境との相互作用から生じた身体技法が蓄積されている可能性である。
したがって、日本文化とは、身体を構造通りに使いこなすための形であるという命題は、現時点では身躰構造學から提出する文化身体論的仮説として位置づけられる。
8-2.近代学校体育の成立と身体運動の制度化
日本人の身体運用の変容を考える上では、明治以降に成立した近代学校体育を無視することはできない。
明治11(1878)年、文部省は体操伝習所を設置した。文部科学省資料にも、同年、体操伝習所において体操の効果判定を目的とする「活力検査」が実施されていたことが確認できる。そこでは体長、体重、胸囲、力量、握力、肺量等が測定されていた。
その後、学校教育の中では普通体操と兵式体操が制度的に位置づけられていく。明治19(1886)年の尋常中学校の学科には「普通及兵式体操」が置かれ、後年の小学校関係規則にも「普通体操及兵式体操」が明記されている。
ここで重要なのは、近代以前に身体運動が存在しなかったということではない。むしろ逆である。
歩く。働く。坐る。運ぶ。耕す。参る。遊ぶ。武術を行う。
それまで生活や文化の内部に埋め込まれていた多様な身体運動とは別に、近代学校制度の成立によって、「身体を教育するための運動」が教科として抽出され、分類され、教授されるようになったのである。
これは日本人の歩行様式がこの時点で直接変化したことを意味しない。
しかし、身体形成の場が生活文化だけではなく学校制度へ拡張し、国家的な教育体系の中で運動が標準化されていったことは、日本人の身体文化の変容を考える上で重要な歴史的転換である。
8-3.兵式体操と「身体の標準化」
近代学校体育の形成過程では、単に健康増進のための運動だけではなく、兵式体操も重要な位置を占めた。
文部科学省が公開する教育史資料には、森有礼文相のもとで軍隊式体育が重視され、学校教育を通して規律ある身体を形成しようとする思想が存在したことが記録されている。
ここで注目すべきなのは、兵式体操そのものの是非ではない。
身体文化史という観点から見れば、これは、個々の生活環境の中で自然発生的に形成されていた身体運動とは異なる原理によって、身体を集団的・制度的に教育する試みであった。
多数の身体が同じ指示を受け、一定の運動形式を共有する。
そこには、身体運動を標準化するという近代的特徴を見ることができる。
したがって、日本人の歩行文化の変容を研究する際には、「西洋式歩行が日本へ導入された」という単純な図式ではなく、生活の中で形成される身体から、制度によって教育される身体へという大きな変化を視野に入れる必要がある。
9.近代化によって何が変化したのか
では、仮に近世以前と現代とで日本人の身体運用に差異が存在するとすれば、その変化はどこで生じたのか。
明治以降、日本社会では衣服、履物、住居、交通、学校教育、軍事訓練、体育制度、労働形態等が大きく変化した。
これらの変化が身体運動へ影響を与えた可能性は、十分に検討する価値がある。
さらに第二次世界大戦後には、教育制度、生活環境、スポーツ文化等にも大きな変化が生じた。
ただし、「明治維新とGHQの施策によって日本人本来の歩法が失われた」と直接的な因果関係として断定するためには、具体的な政策文書、教育資料、身体技法の変遷を示す一次資料等による検証が不可欠である。
したがって現段階では、近代化・戦後化に伴う生活文化および身体教育の変容が、日本人の歩行様式にどのような影響を及ぼしたのかという研究課題として設定するのが適切である。ここは、むしろ今後かなり掘れるところである。
9-2.戦後体育は何を変えたのか
第二次世界大戦後、日本の学校体育はさらに大きな転換を経験した。
文部科学省『学制百二十年史』は、戦後の体育について、運動内容が「徒手体操・器械運動中心から遊戯・スポーツ中心へ大きく転換した」と記している。また、戦前の体育に含まれていた武道も一度教育内容から除かれ、その後、競技方法を改めたスポーツ教材として順次再導入された。
したがって、戦前と戦後の間には、学校において何を身体教育の中心とするかという点で明確な変化が存在した。
ただし、この変化から直ちに「戦後教育によって日本人の伝統的歩法が失われた」と結論することはできない。
学校体育の変化と歩行様式の変化との因果関係を立証するためには、歩行教育に関する教科書、教授要目、教師用指導書、映像資料等を年代ごとに比較する必要がある。
現時点で確認できるのは、少なくとも、日本人の身体を形成する教育的枠組みそのものが、近代から戦後にかけて繰り返し再編されてきたということである。
9-3.失われたのは「歩き方」だけなのか
さらに、近代化・戦後化による身体文化の変容を、学校体育だけに求めることも十分ではない。
鉄道、自動車、道路、公共交通機関等の発達は、人間が自らの脚によって移動しなければならない社会的条件そのものを変化させた。
近世の街道旅行において一日30〜40km規模の徒歩移動が成立していたという事実と、現代の移動環境との間には、歩行技法以前に、「歩く必要性」そのものの大きな差異が存在する。
もし身体運動が、反復される生活行為によって形成されるのであれば、歩かなければ生活できない環境と、歩かなくても移動できる環境とでは、形成される身体にも差異が生じ得る。
この観点からすれば、「失われた日本人の歩行」という問題は、ある特定の歩型が忘れられたという問題だけではない。
その歩行を形成し、反復し、維持していた生活環境そのものが変化したのではないかという、より大きな問いへと繋がる。
そうであるならば、近世から現代への変化を、ナンバ歩き → 現代歩行という単純な二項対立として捉えることはできない。
生活様式、衣服、履物、住居、労働、交通、学校体育、スポーツ文化等の変化が重なり合う中で、日本人が日常的に経験する身体運動そのものが変容してきた可能性を検討する必要がある。
10.「失われた歩法」を探すのではなく、身体そのものへ還る
本稿の目的は、「江戸時代の日本人はこの歩き方をしていた」という一つの型を復元し、それを現代人へ模倣させることではない。
また、「ナンバ歩き」という別の歩行技術を習得することでもない。
重要なのは、身体構造そのものへ戻ることである。
大腿骨。寛骨。脊柱。肋骨。頭蓋骨。足。これらは現代人にも存在する。失われたものがあるとすれば、それは骨そのものではない。
それらの構造を、全身運動の中でどのように関係づけるかという身体運用である可能性がある。
したがって、「失われた日本人の歩法」を研究することは、過去の特殊な歩法を考古学的に復元することだけを意味しない。
むしろ、現代人自身の身体構造から、歩行という根源的運動を再発見することなのである。
結語
日本人は「特別に歩けた」のではなく、身体を使って歩いていたのではないか
過去の日本人が長距離を移動し得た事実から、直ちに特定の歩行技法を導き出すことはできない。
しかし、その身体能力を、現代的な歩行概念だけによって理解する必要もない。
本稿では、従来の「ナンバ歩き」論から一度距離を取り、「体幹部を前方へ運ぶ」という観点から歩行を再検討した。
その核心にあるのは、足だけで身体を運ぶのではなく、足と体幹部とが一体となって前方へ進むという身体観である。
過去の日本人が特殊な身体を持っていたわけではない。現代人とは異なる骨を持っていたわけでもない。
もし両者に身体運用上の差異が存在するとすれば、その鍵は、「何を持っていたか」ではなく、「既に持っている構造を、どのように使っていたか」にあるのではないだろうか。
そして、この問題は歩行だけには留まらない。
日本文化そのものを、身体の外側に存在する伝統としてではなく、身体を形成し、身体によって継承されてきた「形」として読み直す可能性へ繋がっていく。
失われた歩法を探す。その先にあるのは、過去への回帰ではない。身体の根源への回帰である。
Return to Structure.
構造へ還る。
身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi
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