「脳疲労」という概念は何を意味するのか
―医学用語・日常語・身体感覚の混同について

要旨

 「脳が疲れた」「頭を使いすぎて脳が疲労している」といった表現は、現代社会において広く使用されている。しかし、「脳疲労」という語が具体的に何を意味しているのかを問うと、その内容は必ずしも明確ではない。

 疲労研究には、mental fatigue(精神的・認知的疲労)、central fatigue(中枢性疲労)、cognitive performance fatigue(認知遂行性疲労)、perceived cognitive fatigue(主観的認知疲労)など、それぞれ異なる研究概念が存在する。「脳疲労」という日常語は、これらを区別せず、一つの実体的現象であるかのように包括してしまう危険性をもつ。

 本稿では、「脳疲労」という語を医学的実体として前提するのではなく、①主観的身体感覚、②認知課題による遂行能力の変化、③中枢神経系に関係する生理学的疲労、④睡眠不足・ストレス・注意負荷等に伴う複合的状態を区別する。その上で、「脳が疲れた」という言語表現が、身体全体で生じている複雑な状態を「脳」という単一器官へ帰属させている可能性について考察する。

キーワード: 脳疲労、精神疲労、認知疲労、中枢性疲労、身体感覚、言語、身体論


1.そもそも「脳疲労」とは何なのか

 「今日は脳が疲れた」「考えすぎて脳疲労が起きている」「スマートフォンの使いすぎで脳が疲れている」こうした表現は、現代では珍しくない。
 しかし、ここで最も基本的な問いを立てる必要がある。そもそも、「脳が疲れる」とは何を意味するのか。
 例えば筋疲労であれば、一定の運動課題に伴う力発揮能力の低下など、比較的具体的な生理学的・運動学的指標を設定することができる。
 それでは、「脳疲労」の場合、何が低下したことをもって「疲労」と呼ぶのだろうか。
 注意力なのか。反応速度なのか。記憶能力なのか。判断能力なのか。意欲なのか。眠気なのか。頭重感なのか。或いは、それらを包括した主観的な「疲れた感じ」なのか。
 この問いを明確にしないまま「脳疲労」という語を使用すると、異なる現象が一つの言葉の中へ混在する。


2.「疲労」は一つの現象ではない

 疲労研究において重要なのは、「疲労」という言葉そのものが単一の現象を指していないことである。
 LeavittとDeLucaは、fatigueが単一の構成概念ではなく、生理的/心理的、主観的/客観的、認知的/運動的、末梢性/中枢性など、複数の区別によって研究されてきたことを指摘している。
 また近年の疲労研究では、客観的な遂行能力の低下と、本人が感じる主観的疲労を区別する必要性が強調されている。
 例えば、長時間の認知課題を行った人物が、「物凄く疲れた」と感じていても、反応時間や正答率が必ずしも同程度に低下するとは限らない。
 反対に、本人が強い疲労を自覚していなくても、課題遂行能力に変化が現れる可能性もある。
 したがって、「疲れたと感じること」と、
「能力が低下していること」は同一ではない。
 この区別だけでも、「脳疲労」という一語では現象を十分に説明できないことが分かる。


3.Mental Fatigue――「精神疲労・認知疲労」

 英語圏の研究では、mental fatigueという概念が広く用いられている。
 Van Cutsemらはmental fatigueを、長時間にわたる要求度の高い認知活動によって生じる心理生物学的状態として扱っている。
 ここで重要なのは、mental fatigue = brain fatigueではないことである。
 研究対象となっているのは、長時間の認知活動後に生じる主観的状態、認知遂行能力、身体運動への影響などであり、「脳という臓器そのものが疲弊した」と単純に定義されているわけではない。
 つまり、「考える仕事を長時間行った後に疲労感が生じる」ことと、「脳という器官そのものが疲労している」ことの間には、概念上の距離がある。
 この二つを無条件に同一視してはならない。


4.Central Fatigue――「中枢性疲労」と脳疲労は同じではない

 さらに混同されやすい概念にcentral fatigue(中枢性疲労)がある。
 運動生理学におけるcentral fatigueは、一般的な「頭が疲れた」という意味ではない。
 代表的な定義では、運動中に随意的な筋活動を十分に駆動できなくなる現象、すなわち中枢神経系に由来する随意的活性化の低下を問題とする。
 したがって、中枢性疲労=脳が疲れた感じではない。さらにcentralという語も、必ずしも「脳だけ」を意味しない。
 中枢神経系には脳だけでなく脊髄も含まれる。
 日常語としての「脳疲労」と、生理学上の「中枢性疲労」を同一視すると、ここでも概念上の混乱が生じる。


5.「脳が疲れた」と「認知能力が低下した」は同じなのか

 長時間仕事をした後、「頭が回らない」「考えられない」「集中できない」という状態が生じることはある。
 しかし、それを直ちに、「脳そのものが疲労した」と表現する必要があるのだろうか。
 近年の疲労研究では、認知領域についても、cognitive performance fatigueと、perceived cognitive fatigueを区別する枠組みが提案されている。
 前者は、反応時間、正確性などの客観的な認知遂行能力の変化である。
 後者は、「考えるのがしんどい」「頭が疲れた」という主観的経験である。
 両者は関連し得る。しかし、同一ではない。
 この点を無視して、「頭が疲れた感じがする」→「脳が疲れている」と結論づければ、主観的経験を、そのまま器官の状態へ翻訳することになる。
 ここには慎重さが必要である。


6.「脳疲労」という言葉は、何を一つにまとめているのか

 日常語としての「脳疲労」には、少なくとも次のような異なる現象が混在し得る。
 長時間の認知活動。睡眠不足。眠気。心理的ストレス。注意の持続困難。情報過多。意思決定の連続。主観的疲労感。認知遂行能力の低下。身体的疲労。自律神経系を含む全身状態の変化。これらは相互に関係する可能性がある。
 しかし、関係していることと、同一であることは違う。
 例えば睡眠不足によって集中力が低下した人物が、「脳疲労だ」と表現することはできる。
 しかし、その現象をより精密に記述するなら、「睡眠不足に伴って注意機能が低下し、強い認知的疲労感を自覚している」といった記述も可能である。
 「脳疲労」という言葉は便利である。便利だからこそ、多数の異なる現象を一語の中へ隠してしまう。


7.「脳」という主語は、本当に必要なのか

 ここで本稿の中心的問題に入る。
 人が、「脳が疲れた」と言う時、本当に脳だけが問題なのだろうか。
 長時間のデスクワークを考えてみる。人は脳だけで仕事をしているわけではない。眼球を使用する。頸部を保持する。脊柱を一定の位置に保つ。呼吸する。手指を使用する。座位を維持する。光や音を受け取る。空腹や満腹を感じる。情動が変化する。身体全体が環境との関係の中で、数時間にわたって活動している。
 その結果として生じた、「もう考えたくない」「頭が重い」「集中できない」という経験を、すべて「脳」という一器官へ帰属させることは、本当に適切なのだろうか。


8.身体感覚と言語の問題

 ここで問題となるのは、生理学だけではない。言語の問題である。
 人間は、自らの身体内部で起きている現象を直接すべて把握できるわけではない。 
 我々が経験しているのは、重い。だるい。眠い。ぼんやりする。集中できない。考えたくないといった身体感覚・心理感覚である。
 そこへ、「これは脳疲労である」という言葉が与えられる。
 すると、それまで曖昧だった経験が、一つの医学的・生物学的実体であるかのように認識され始める可能性がある。
 つまり、感覚 → 言語化 → 実体化という過程である。
 「名前がある」ということと、「その名前に対応する単一の実体が存在する」ということは同じではない。


9.「脳疲労」という語が身体認識をつくる可能性

 言葉は、単に現象を説明するだけではない。
 時に、現象の見え方そのものをつくる。「脳疲労」という言葉を知った人は、仕事後の倦怠感を、「今日は身体全体が疲れている」ではなく、「脳が疲れている」と認識するようになる可能性がある。
 すると休息についても、「脳を休ませなければならない」という発想が生まれる。
 しかし、そもそも身体内部で何が起きているのかが明確でなければ、言葉が現象を説明しているのか言葉によって現象を解釈しているのかを区別できない。
 ここに「脳疲労」という概念を批判的に検討する意味がある。


10.「脳が疲れた」と、誰が言ったのか

 したがって、「脳疲労」を考える時に必要なのは、「脳疲労はあるか、ないか」という二者択一ではない。
 むしろ、「脳疲労」という言葉によって、何を指しているのかを問うことである。
 主観的疲労なのか。認知遂行能力の低下なのか。中枢性疲労なのか。眠気なのか。ストレス反応なのか。或いは複数の現象をまとめた便宜的表現なのか。
 これらを区別せず、「脳疲労が起きています」とだけ説明しても、科学的には殆ど何も説明していない可能性がある。


11.「脳疲労は幻想である」と言う前に

 ここでも逆方向への単純化には注意が必要である。
 「脳疲労という医学的に統一された概念が曖昧である」ことと、「長時間の認知活動によって疲労感や遂行能力の変化が生じることは存在しない」ことは全く違う。
 mental fatigueに関する研究は存在する。認知課題後の主観的疲労や遂行能力の変化も研究されている。中枢神経系が関与する疲労現象も存在する。
 したがって、「脳疲労という言葉が曖昧である」=「疲労現象そのものが存在しない」ではない。
 批判すべきなのは現象ではなく、異なる現象を一つの言葉によって実体化してしまうことなのである。


12.器官中心主義から身体全体へ

 現代では、さまざまな身体現象が「脳」によって説明される。
 もちろん脳は、人間の認知・運動・情動において極めて重要な器官である。
 しかし、重要であることと、すべての現象の唯一の主体であることは違う。
 人間は脳だけで存在しているわけではない。脳は脊髄と連続し、末梢神経系と関係し、循環・呼吸・内分泌・免疫・筋骨格系を含む全身との相互作用の中で機能している。
 したがって、「脳が疲れた」という器官中心的な説明から一度離れ、「この人間という身体全体に、いま何が起きているのか」と問い直す必要がある。


13.「疲労」を身体から切り離さない

 認知的な疲労を研究することは重要である。脳活動を測定することも重要である。 
 しかし、それらを研究することと、人間の疲労経験そのものを脳へ還元することは別問題である。
 我々が経験する疲労は、身体、認知、情動、環境、行為、時間、睡眠、社会的状況など、多数の条件によって変化する。
 したがって「疲労」を理解するためには、どこが疲れたのかだけではなく、どのような条件の中で、どのような疲労現象が生起したのかを問う必要がある。


14.「脳疲労」という言葉を解体する

 以上を踏まえると、「脳疲労」という語は、そのまま受け入れるよりも、一度解体した方がよい。
 「脳疲労」と言われたら、何を測定したのか。何が低下したのか。本人は何を感じているのか。眠気とは違うのか。認知遂行能力の低下なのか。身体疲労とはどう区別したのか。中枢性疲労を意味しているのか。それとも単なる日常語なのかと問い直す。
 すると、一つに見えていた「脳疲労」が、実際には複数の異なる現象から構成されていることが見えてくる。


結論――「脳疲労」を疑うことは、疲労を否定することではない

 本稿の目的は、「脳は疲れない」と断言することではない。
 また、「精神疲労は存在しない」と主張することでもない。
 問題としているのは、「脳疲労」という一つの言葉によって、本来区別して考えるべき複数の現象を、一つの実体的な現象であるかのように理解してしまうことである。
 長時間にわたる認知活動の後に、人が強い疲労感を経験することはある。注意の維持が困難になることもある。反応速度や正確性など、認知課題の遂行成績に変化が現れる場合もある。
 睡眠不足によって眠気や認知機能の低下が生じることもある。
 また、身体運動においては、中枢神経系に由来する随意的活性化の低下として、中枢性疲労が研究されている。
 これらの現象そのものを否定する必要はない。
 しかし、それらすべてを「脳疲労」と呼ぶ必要があるのかという問題は残る。
 むしろ科学的に重要なのは、「脳疲労」という大きな言葉によって現象をまとめることではなく、その言葉の内部に何が含まれているのかを一つずつ分解することである。


「脳疲労」という言葉は、説明なのか

 ここで改めて問い直したい。
 ある人が、「仕事をし過ぎて脳疲労になった」と言ったとする。
 この文章は、一見すると原因と結果を説明しているように見える。
 しかし、「脳疲労とは具体的に何が起きた状態なのか」が定義されていなければ、この言葉は現象を説明しているとは限らない。
 「集中できない」「眠い」「頭が重い」「考えたくない」「判断することがしんどい」「身体がだるい」。
 こうした複数の経験を、「脳疲労」という一語へ置き換えただけかもしれない。
 つまり、名前を付けたことと、仕組みを説明したことは違うのである。
 これは「脳疲労」に限った問題ではない。身体について語る時、人間はしばしば、複雑な現象に一つの名称を与えることで、その現象を理解したように感じる。
 しかし、名称は現象そのものではない。まして、その名称が特定の器官を含んでいるからといって、その器官に単一の病態や疲労状態が存在することが自動的に証明されるわけでもない。


「脳」という言葉が説明力を持ちすぎていないか

 現代社会では、「脳」という語が非常に強い説明力をもって使用される。
 脳科学。脳機能。脳疲労。脳活性。脳を休ませる。脳を鍛える。
 こうした言葉には、科学的・医学的な印象が伴う。しかし、「脳」という言葉が入っていることと、その説明が神経科学的に確立されていることは同じではない。
 脳が人間の認知・情動・運動に深く関与することは疑いない。
 問題はそこではない。問題は、脳が関与しているということから、脳だけがその現象の主体であるという理解へ無意識に移行してしまうことである。人間は、脳だけで考えているのではない。少なくとも人間の認知活動は、脳を身体から切り離した状態で現実世界に存在しているわけではない。 
 眼から情報を受け取る。耳から音を受け取る。手を動かす。呼吸する。姿勢を維持する。重力場の中に存在する。環境に反応する。他者と関係する。そして、それらすべてを含んだ一個の身体として活動している。
 したがって、「脳が疲れた」という言葉を使用する前に、「この身体全体に、いま何が起きているのか」という問いを置く必要がある。


主観的経験を否定しない

 ここで重要なのは、「脳疲労という言葉は曖昧である」という批判が、本人の疲労経験を否定することになってはならないことである。
 本人が、「疲れた」「頭が働かない」「もう考えたくない」と感じているなら、その経験そのものは存在している。
 問題なのは、その経験を何と呼び、どのような機序として説明するかである。
 主観的疲労感は、主観的であるから「偽物」なのではない。
 むしろ、人間の疲労を理解する上で重要な研究対象である。
 しかし、主観的経験が存在することと、その原因が「脳という器官の疲労」であることは別の命題である。この二つを区別しなければならない。


「脳疲労」を解体すると、疲労が見えてくる

 一見すると、「脳疲労」という言葉は複雑な疲労現象を分かりやすくしてくれる。
 しかし逆説的に、「脳疲労」という言葉を外した方が、疲労そのものがよく見える可能性がある。
 眠いのか。睡眠不足なのか。認知課題による主観的疲労なのか。認知遂行能力が低下しているのか。身体的に疲労しているのか。心理的ストレスが強いのか。長時間同じ姿勢を保持していたのか。眼を長時間使用していたのか。複数の要因が重なっているのか。
 「脳疲労」という一語を外すことで、これらを一つずつ問い直すことができる。
 つまり、概念を解体することによって、現象をより細かく見ることができるのである。


疲労とは「どこ」の問題なのか

 さらに、この議論はより大きな問いへ接続する。
 我々は疲労について考える時、「どこが疲れたのか」と問う。筋肉が疲れた。眼が疲れた。脳が疲れた。
 しかし、人間の疲労は本当に、身体を器官ごとに切り分けることで十分に説明できるのだろうか。
 例えば長時間のデスクワーク後の疲労を考える。認知活動があった。視覚活動があった。姿勢保持があった。呼吸があった。手指の運動があった。心理的緊張があったかもしれない。睡眠不足があったかもしれない。食事や水分摂取の状態も関係するかもしれない。室温、照明、騒音、人間関係、仕事上の責任といった環境条件も関係し得る。
 そう考えるならば、疲労とは、一つの器官だけに帰属させるよりも、人間と環境との関係の中で生起する複合的現象として検討すべき場合があるという視点が生まれる。


「脳疲労」という幻想

 ここで本稿の表題に戻る。
 「脳疲労」という概念を疑うことは、疲労そのものを幻想だと言うことではない。
 幻想になり得るのは、様々な条件によって生じている複雑な疲労経験の背後に、「脳疲労」という一個の明確な実体が存在していると無条件に想定することである。
 したがって、疲労はある。しかし、その疲労を直ちに「脳疲労」という一つの実体として理解してよいとは限らないというのが、本稿の立場である。
 これは単なる言葉遊びではない。どのような言葉によって身体を理解するかは、どのように身体を見るかに直接関係するからである。


言葉を疑うことから、身体研究は始まる

 「脳疲労」という言葉を聞いた時、その言葉をそのまま受け入れるのではなく、そもそも、それは何を意味しているのかと問う。
 何を測定したのか。何を疲労と定義したのか。主観なのか。客観なのか。認知なのか。運動なのか。中枢神経系なのか。眠気なのか。身体全体の状態なのか。そして、なぜ、その現象の主語を「脳」にしたのか。
 ここまで問い直して初めて、「脳疲労」という言葉から離れ、実際に起きている現象へ近づくことができる。
 身体研究において重要なのは、既に存在する名称を覚えることだけではない。
 時には、その名称によって何が見えなくなっているのかを問う必要がある。


結語

 人間は、言葉によって世界を理解する。
 しかし同時に、言葉によって世界を切り分けてもいる。
 「脳疲労」という言葉も、その一つである。それは複雑な疲労経験を簡潔に伝えるための便利な表現となり得る。
 しかし、その便利さ故に、主観的疲労感、認知遂行能力の変化、中枢性疲労、眠気、睡眠不足、心理的ストレス、身体的疲労、環境条件、といった異なる現象を、一つの「脳の疲労」という像へ集約してしまう可能性がある。
 だからこそ、「脳疲労はあるのか、ないのか」という問いだけでは不十分である。
 より重要なのは、「脳疲労」という言葉によって、我々は何を見ているのか。そして、その言葉によって何を見失っているのかという問いである。
 疲労を否定する必要はない。疲れている人に、「それは幻想だ」と言う必要もない。むしろ逆である。
 疲労という現象を、本当に見るためにこそ、「脳疲労」という言葉を一度疑うのである。
 脳という一器官へ急いで答えを求めるのではなく、その人が、どのように眠り、どのように働き、どのように考え、どのように身体を使い、どのような環境に置かれ、そして、どのように「疲れた」と感じているのか。そこまで含めて人間を見る。
 そうして初めて、「脳が疲れた」という一言の背後に隠れていた、一個の人間の疲労が見えてくる。
 したがって、本稿が最終的に提起する問いは、「脳は疲れるのか」ではない。
 それよりも前に問わなければならない。「脳が疲れた」と、誰が言ったのか。そして、その時、身体には何が起きていたのか。
 「脳疲労」という言葉を解体することは、疲労を消すことではない。それはむしろ、言葉の向こう側にある身体を、もう一度見ることなのである。

身躰構造學研究所
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