「鍛える」という身体観の再検討
―能力の増強と身体構造の開發は同一か

要旨

 「身体を鍛える」「筋肉を鍛える」「体幹を鍛える」「足腰を鍛える」といった表現は、スポーツ、武術、フィットネス、健康教育などにおいて広く使用されている。

 一般に「鍛える」という語は、反復的な負荷によって身体能力を高めることを意味する。筋力、筋持久力、心肺持久力、瞬発力など、一定の能力を向上させるトレーニングは、その代表である。

 しかし、ここで一つの問いが生じる。

 身体能力が高くなることと、身体そのものをより深く使えるようになることは、同じなのだろうか。

 例えば、筋力が向上しても、それまでほとんど認識・運動されていなかった身体構造が使えるようになったとは限らない。反対に、筋量や最大筋力が大きく変化しなくても、身体各部の認識、関節運動、運動協調、力の伝達、身体構造間の関係が変化することによって、運動そのものが大きく変化する可能性がある。

 したがって、「能力を高めること」と「身体の運動可能性を開くこと」は、関連しながらも概念的には区別する必要がある。

 本稿では、「鍛える」という身体観を否定するのではなく、その射程を明確化する。その上で、負荷に対する適応としての鍛錬・トレーニングと、身体構造の認識・運動可能性を拡張する身体構造の開發とを区別し、両者の関係について検討する。

キーワード: 鍛錬、トレーニング、身体開發、身体構造、筋力、運動学習、適応、身体能力、運動制御


1.「身体を鍛える」とは何をすることなのか

 身体について語る時、「もっと鍛えた方がいい」「身体が鍛えられている」「足腰を鍛える」「筋肉を鍛える」といった言葉が頻繁に使われる。
 しかし、「鍛える」とは、身体に何を起こすことなのか。筋肉を大きくすることなのか。筋力を高めることなのか。持久力を高めることなのか。骨への負荷を増やすことなのか。運動技能を向上させることなのか。精神的忍耐力を高めることなのか。これらは同じではない。
 「鍛える」という一語の内部には、複数の異なる適応現象が含まれている。
 したがって、身体について「鍛える」と語る場合には、何を、どのような刺激によって、どのように変化させようとしているのかを明確にする必要がある。


2.「鍛える」という言葉の原像

 「鍛える」という言葉は、本来、金属を打ち、熱し、加工し、その性質を高めていくイメージをもつ。
 そこから転じて、身体を鍛える。精神を鍛える。技を鍛えるという表現が生まれる。
 この言葉には、刺激を与える→耐える→以前より強くなるという基本的な身体観が含まれている。
 実際、身体には負荷への適応能力がある。筋に一定の負荷を与えれば、条件によって筋力や筋量が変化する。
 持久的運動を反復すれば、それに対応した生理学的適応が生じる。骨も力学的刺激に応答する。
 したがって、負荷によって身体能力を変化させるという「鍛える」の考え方には、明確な生物学的基盤がある。


3.身体は負荷に適応する

 トレーニングとは、広い意味では身体へ一定の刺激を与え、その刺激への適応を引き出す行為と考えることができる。
 重い物を持つ。走る。跳ぶ。反復する。その結果として、身体は課題へ適応する。
 ここで重要なのは、身体は「鍛える」という抽象的刺激へ適応するのではないということである。
 身体は、実際に与えられた具体的な刺激
へ適応する。
 したがって、何を行ったかによって、何が変化するかも異なる。
 これはトレーニングの特異性という問題へつながる。


4.「鍛えた身体」という一つの身体能力は存在するのか

 「あの人は身体が鍛えられている」という表現がある。しかし、その人は何に対して鍛えられているのだろうか。
 長距離走者。重量挙げ選手。体操選手。水泳選手。格闘家。登山家。それぞれ身体能力は大きく異なる。
 マラソンを速く走れるからといって、最大重量を持ち上げられるとは限らない。大きな筋力を発揮できるからといって、長時間走り続けられるとは限らない。
 したがって、「鍛えられた身体」という普遍的な一能力が存在するわけではない。
 より正確には、身体は、経験してきた課題に応じて異なる方向へ適応しているのである。


5.能力が高いことと、身体を使えていることは同じなのか

 ここで本稿の中心的問題に入る。
 例えば、ある人物の脚力が向上したとする。スクワットで扱える重量が増えた。跳躍高が向上した。これは一つの能力向上である。
 しかし、その事実だけから、その人物が自らの身体構造を以前より詳細に使えるようになったとは言えるだろうか。
 反対に、筋量や最大筋力には大きな変化がなくても、これまで認識できなかった身体部位を認識できる。
 これまで生じなかった関節運動が生じる。複数の身体部位を異なる関係で動かせる。運動の選択肢が増えるという変化は起こり得る。
 したがって、能力の増強と、身体使用可能性の拡張は、同一ではないという区別が必要になる。


6.「強くなる」と「動けるようになる」

 筋力トレーニングによって、より大きな力を発揮できるようになることがある。これは「強くなる」という変化である。
 一方、運動学習によって、以前できなかった運動ができるようになることがある。これは「動けるようになる」という変化である。
 両者は関連し得る。しかし同一ではない。大きな力を発揮できても、特定の運動技能をもたないことはある。
 反対に、最大筋力がそれほど高くなくても、高度な運動技能をもつこともある。
 したがって、力の大きさと、運動可能性を区別して考える必要がある。


7.「できる回数」が増えることと、身体が変わること

 トレーニングでは、10回できた。20回できた。50回できたというように回数によって能力向上を評価することがある。
 これは明確で有用な評価方法である。しかし、回数が増えたことによって、何が変化したのかは別問題である。
 筋力なのか。筋持久力なのか。動作効率なのか。技術なのか。課題への慣れなのか。心理的耐性なのか。複数の要因が考えられる。
 したがって、記録の向上は変化を示すが、その変化の内容までは自動的に説明しないのである。


8.同じ運動を繰り返すことの意味

 鍛錬では反復が重視される。同じ運動を繰り返す。身体はその運動へ適応する。これは重要である。
 しかし、反復には二つの側面がある。一つは、能力を高めること。もう一つは、その運動様式を強く学習することである。
 つまり、反復すれば、より強くなるだけではない。よりその動き方が上手くなる。そして場合によっては、その動き方がさらに固定化される。
 したがって、何を反復するかは、どれだけ反復するかと同じくらい重要である。


9.「間違った動きでも鍛えられる」のか

 ここから重要な問題が生じる。
 仮に、ある運動が身体の一部へ過度に依存していたとする。
 しかし、その方法で長期間トレーニングを続ければ、その方法自体が上達する可能性がある。
 筋力も向上する。回数も増える。記録も向上する。
 つまり、能力が向上したことと、運動構造が適切になったことは同じではない。
 これは非常に重要である。身体は、与えられた課題へ適応する。
 したがって、身体は「良い動き」にだけ適応するわけではない。反復された動きそのものへ適応するのである。


10.鍛錬は「現在の動き方」を強化する可能性がある

 もし現在の運動様式に偏りが存在したまま負荷を増加させれば、身体はその運動様式のまま能力を高める可能性がある。
 つまり、鍛える前の身体の使い方が重要になる。
 例えば、ある動作を特定の身体部位へ強く依存して行っている人物が、その動作を何千回も反復する。
 すると、その動作を遂行する能力は向上するかもしれない。
 しかし同時に、その身体使用のパターンそのものも強く学習される可能性がある。
 したがって、鍛錬は身体を変える。しかし、「どの方向へ変えるか」は、行っている運動そのものに依存する。


11.「鍛える前に身体を整える」という発想

 この問題から、「まず身体を整えてから鍛える」という考え方が生まれる。これは一定の意味をもつ。
 しかし、「整える」という語もまた曖昧である。左右対称にするのか。姿勢を変えるのか。可動域を増やすのか。筋緊張を変えるのか。運動パターンを変えるのか。
 したがって、整える/鍛えるという二分法だけでは十分ではない。
 より根本的には、その身体が現在、どのような構造認識と運動可能性をもっているのかを見る必要がある。


12.身体には「まだ使っていない可能性」があるのか

 身体には多数の骨がある。多数の関節がある。多数の運動自由度がある。
 しかし、人間が日常生活でそれらすべてを均等に認識し、自在に運動させているとは限らない。
 日常生活では、必要な動作が限定される。同じ姿勢。同じ歩行。同じ作業。同じスポーツ。それらを反復することで、特定の運動様式が習慣化される。
 すると身体構造そのものは存在していても、その構造がもつ運動可能性の一部しか使用されていないという状態が考えられる。
 ここに、「鍛える」とは異なる身体変化の可能性が生じる。


13.身体構造を「開發する」とは何か

 本稿では、この違いを表現するために、身体構造の開發という概念を置く。
 ここでいう開發とは、筋力や持久力など特定能力を単純に増大させることではない。
 むしろ、すでに存在している身体構造をより詳細に認識し、その構造がもつ運動可能性を身体運動として利用できるようにしていくことを意味する。
 したがって、鍛錬=能力増強、開發=運動可能性の顕在化・拡張という概念的区別が可能になる。
 ただし、実際の身体変化において両者が完全に分離しているわけではない。
 鍛錬によって運動技能が向上することもあり、開發的な運動によって筋力や持久力が変化することもある。
 重要なのは、目的と観察対象を区別することである。


14.「ないものを足す」のか、「あるものを使えるようにする」のか

 「鍛える」という身体観には、現在の身体へ何かを追加するというイメージがある。筋肉を増やす。筋力を増やす。持久力を増やす。能力を増やす。
 一方、身体構造の開發では、既に存在しているものを見るという方向が重要になる。骨はすでにある。関節もある。身体構造もある。しかし、その構造を十分に認識・運動できているとは限らない。
 したがって、鍛錬が「能力を足す」方向を持つとすれば、開發は「既にある可能性を開く」方向を持つと整理することができる。


15.「筋肉をつける」と「骨格を使う」は別問題である

 例えば筋量が増加したとする。これは身体に明確な変化が生じたことを意味する。 
 しかし、筋量が増えたことによって、関節運動の選択肢が増えたのか。骨格構造の認識が高まったのか。身体各部の協調が変化したのかという問題は別である。
 したがって、筋肉が発達したことと、骨格をより多様に使えるようになったことを同一視することはできない。両者は共存できる。
 しかし、一方から他方が自動的に導かれるわけではない。


16.「身体能力」とは何を指しているのか

 「身体能力が高い」という言葉も広い。筋力。速度。持久力。柔軟性。敏捷性。平衡能力。協調性。運動技能。これらは異なる。
 したがって、身体能力が高い/低いという一軸だけで身体を評価することには限界がある。
 ある能力が非常に高い一方で、別の運動可能性が限定されていることもある。
 ここから、能力の高さと、身体の豊かさは同じなのかという問いが生じる。


17.「高性能な身体」と「多様な身体」

 ある特定課題において非常に高い能力を発揮する身体がある。
 これは、高性能な身体と呼ぶことができるかもしれない。
 一方、多様な姿勢を取れる。多様な関節運動ができる。異なる環境へ適応できる。これまで使用していなかった身体構造を運動へ参加させられる。このような身体は、多様な身体と捉えることができる。
 両者は同じではない。高性能でありながら、特定の運動へ高度に特化している身体もある。多様な運動可能性をもちながら、特定競技の最大パフォーマンスは高くない身体もある。
 したがって、「身体を良くする」という目標そのものも、何を良しとするのかによって異なる。


18.専門化は身体を豊かにするのか

 スポーツにおける高度な競技能力は、専門的なトレーニングによって形成される。
 投げる。打つ。蹴る。走る。泳ぐ。跳ぶ。
 特定の運動を長期間反復することで、身体はその課題へ高度に適応する。これは人間の身体がもつ優れた学習・適応能力である。
 しかし、ここで一つの問いが生じる。専門化することと、身体全体の運動可能性が広がることは同じなのだろうか。
 特定の技能が高度になることは、その技能に必要な運動が洗練されることを意味する。
 しかし、それによって身体のあらゆる運動可能性が同時に拡張するとは限らない。むしろ、競技によっては特定の動作を膨大に反復する。
 したがって、専門化とは、身体能力を一方向へ深く発達させることであり、必ずしも身体の可能性を全方向へ広げることではないと考える必要がある。


19.特異性――身体は「やったこと」に適応する

 トレーニング科学では、適応の特異性が重要である。
 身体は、与えられた刺激に応じて変化する。
 重い物を持つ能力を高めたいなら、それに対応した刺激が必要になる。
 長時間走る能力を高めたいなら、別の刺激が必要になる。
 高速で力を発揮する能力と、長時間力を維持する能力も同じではない。
 つまり、鍛えれば、何でも強くなるわけではない。
 より正確には、身体は、何をしたかに応じて変化するのである。
 この原則は、「鍛える」という言葉を考えるうえで極めて重要である。


20.「鍛える」という言葉は、方向を隠してしまう

 「身体を鍛えています」という言葉だけでは、その身体がどの方向へ変化しているのか分からない。
 筋力を高めているのか。持久力を高めているのか。特定の技能を反復しているのか。競技特有の運動へ適応しているのか。    
 したがって、鍛えること自体が目的になると、何のために、どの方向へ身体を変化させているのかが見えにくくなる。
 「鍛える」という言葉は便利である。しかし便利だからこそ、身体変化の方向性を一語の中へ隠してしまう可能性がある。


21.能力が上がれば、身体は「良くなった」のか

 例えば、100kgしか持ち上げられなかった人物が150kgを持ち上げられるようになった。10kmを60分で走っていた人物が45分で走れるようになった。懸垂が10回だった人物が30回できるようになった。これらは明確な能力向上である。
 しかし、身体が良くなったという言葉まで使う場合には注意が必要である。
 何をもって「良い」とするのか。競技成績なのか。筋力なのか。運動可能性なのか。身体認識なのか。適応能力なのか。目的によって評価は変わる。
 したがって、能力向上という事実と、身体全体についての価値判断を区別する必要がある。


22.「できることが増える」という別の身体評価

 身体変化を評価する方法として、どれだけ強くなったかだけでなく、何ができるようになったかを見ることができる。
 以前は動かなかった関節が動く。以前は認識できなかった身体部位を認識できる。一つの運動しかできなかった身体が、複数の運動方法を選択できる。異なる環境へ適応できる。
 こうした変化は、必ずしも最大筋力や最大速度として数値化されるとは限らない。
 しかし、身体の運動可能性が増えたという意味では重要な変化である。


23.「量」の増加と「種類」の増加

 ここで、身体能力の変化を二つの方向から考えることができる。
 一つは、量の増加。より重く。より速く。より長く。より多く。
 もう一つは、種類の増加。これまでできなかった動きができる。異なる身体部位を使える。異なる運動方法を選べる。異なる環境へ対応できる。
 前者は、能力の増強である。後者は、運動可能性の拡張である。両者は関連し得るが、同一ではない。


24.「100を200にする」と「0を1にする」

 この違いを単純化して表現するならば、
 鍛錬には、100ある能力を200へ高めるという方向がある。
 一方、開發には、これまで運動として存在していなかった0を1にするという方向がある。
 勿論、これは概念を説明するための比喩であり、実際の身体能力を単純な数値で表せるという意味ではない。
 しかし、既存能力を増強することと、新しい運動可能性を獲得することの違いを示すには有用である。
 鍛えるとは、既に行っているものを強くする。開發とは、まだ十分に現れていないものを使えるようにする。このような区別が可能になる。


25.開發されたものを、さらに鍛える

 ここで重要なのは、鍛錬と開發を対立させないことである。
 身体構造の新しい運動可能性が開かれたとする。それだけで、その運動を高速・高負荷・長時間に行えるとは限らない。
 新しく獲得した運動を、反復する。負荷を加える。速度を高める。持続時間を延ばす。すると、その運動に必要な能力が更に適応する。
 つまり、開發されたものを、鍛える。という段階が存在する。
 この意味では、開發 → 鍛錬という関係を考えることができる。


26.鍛えることで、さらに開發されることもある

 逆方向も存在する。
 反復的なトレーニングの過程で、新しい身体感覚に気づく。運動技能が改善する。身体各部の協調が変化する。これまで認識していなかった運動が現れる。
 つまり、鍛錬の中から開發が生じる場合もある。
 したがって、鍛錬=悪い、開發=良いという二分法をつくるべきではない。両者は目的と視点が異なるのであって、現実の身体では相互に影響し得る。


27.問題は「鍛えること」ではなく、「何を鍛えているか」

 したがって、本稿が問題としているのは筋力トレーニングでも、スポーツトレーニングでも、鍛錬そのものでもない。
 問題は、「鍛える」という言葉によって、身体変化をすべて一種類のものとして扱うことである。
 何を鍛えているのか。どの能力を高めているのか。どの動作を反復しているのか。その反復によって、どの運動様式が学習されているのか。そして、その身体には、他にどのような運動可能性が残されているのか。ここまで見る必要がある。


28.「筋力が足りない」という説明

 ある動作ができない人物に対して、「筋力が足りない」と説明することがある。実際に筋力不足が制限因子である場合は存在する。
 しかし、できない=筋力不足とは限らない。
 動作そのものを知らない。運動を学習していない。関節運動の選択肢が少ない。身体各部の協調が成立していない。課題の理解が不十分である。恐怖や痛みなど別の条件がある。様々な可能性が存在する。
 したがって、「できない」という結果から、直ちに「弱い」という原因を導いてはならないのである。


29.「弱いから鍛える」という循環

 身体指導では、できない→弱い→鍛えるという論理が生じやすい。
 しかし、もし原因が筋力ではなく運動方法にあるならば、更に筋力を高めても問題が解決しない可能性がある。
 むしろ、現在の運動方法のまま大きな力を発揮できるようになることも考えられる。
 したがって、鍛える前に、なぜできないのかを見るという順序が必要になる。


30.身体構造が「弱い」のではなく、使われていない可能性

 ある身体部位が運動に十分参加していない時、「弱い」と評価されることがある。
 しかし、弱いことと、使われていないことは同じではない。筋力そのものが低い場合もある。しかし、運動制御上その部位を使用する方法を獲得していない場合もある。この違いは重要である。
 前者には筋力増強が有効かもしれない。後者には運動学習が必要になる。
 したがって、鍛えるべきなのか、開發すべきなのかという問いが生じる。


31.「筋肉を鍛える」前に「身体を知る」

 筋肉を鍛えることには明確な価値がある。
 しかし、自分の身体がどのような構造を持ち、どのように動いているのかを知らないまま負荷だけを増加させれば、現在の身体使用をそのまま強化することになる可能性がある。
 そこで、身体を知る。骨を知る。関節を知る。現在の運動を知る。そして、異なる運動可能性を経験する。その上で必要な能力を鍛えるという順序を考えることができる。


32.「鍛える前に開發する」という考え方

 ここから、鍛える前に、開發するという身体観が成立する。
 これは、「筋力トレーニングをしてはいけない」という意味ではない。
 むしろ、鍛える対象となる身体そのものの運動可能性を、先に豊かにしておくという発想である。
 例えば、身体が一つの運動方法しか持っていない状態で負荷を高める場合と、複数の運動選択肢を持つ状態で負荷を高める場合では、同じ「鍛える」でも意味が異なる。
 したがって、身体構造の開發は、鍛錬の代替ではなく、鍛錬の前提を変える可能性をもつ。


33.鍛える「身体」そのものが変われば、鍛錬も変わる

 この点は重要である。
 同じスクワット。同じ腕立て伏せ。同じ懸垂。同じ歩行。同じ素振り。
 外から見れば同じ運動でも、それを行っている身体の運動構造が異なれば、内部で起きていることも同じとは限らない。
 したがって、トレーニング種目の名前だけでは、その身体が何を学習しているのかを完全には説明できない。
 つまり、何をするかだけではなく、どのような身体でそれをするかが重要になる。


34.「種目」が身体を決めるのではない

 「スクワットをすれば脚が鍛えられる」「プランクをすれば体幹が鍛えられる」「懸垂をすれば背中が鍛えられる」といった説明は分かりやすい。
 しかし、同じ種目でも身体使用は一様ではない。関節運動が異なる。可動域が異なる。身体各部の協調が異なる。速度が異なる。負荷が異なる。
 したがって、種目名=身体内部で起きている現象ではない。
 種目は運動課題を規定する。しかし、その課題を身体がどのように解決するかには幅がある。


35.身体は「課題を達成する方法」を学習する

 人間は、与えられた課題を達成しようとする。10回立ち上がる。重量物を持ち上げる。速く走る。ボールを投げる。身体はその課題を達成する方法を学習する。
 しかし、課題を達成できたことと、その方法が唯一であることは違う。一つの課題には複数の運動解が存在し得る。
 したがって、トレーニングとは能力を高めるだけでなく、「その課題をどう解くか」を身体へ学習させる行為でもある。
 この視点は、「鍛える」を単純な筋力増強から運動学習の問題へ拡張する。


36.身体構造の開發は「運動解」を増やす

 身体構造の開發を、身体が利用できる運動可能性を増やすことと捉えるならば、それは身体が選択できる「運動解」を増やすことにも繋がる。
 一つしか方法がない身体。複数の方法を選択できる身体。この二つでは、環境変化への適応可能性が異なる。
 したがって、開發とは、一つの正しい動きを身体へ固定することではなく、身体構造に基づく運動可能性を増やすことであると位置づけることができる。


37.「強い身体」から「選べる身体」へ

 従来の身体観では、強い。速い。大きい。長く続くといった能力が重視される。これらは重要である。
 しかし、もう一つの評価軸として、選べるという能力を置くことができる。状況によって動きを変えられる。力の出し方を変えられる。姿勢を変えられる。運動方向を変えられる。複数の身体部位を異なる関係で使える。
 つまり、身体の豊かさを、能力の最大値だけではなく、選択可能な運動の多さによって見るという身体観である。


38.「可動域が広い」と「運動可能性が豊か」は同じではない

 ここで注意が必要なのは、運動可能性の豊かさを、単純な関節可動域の広さと同一視しないことである。
 関節可動域が広くても、その範囲を運動の中で制御できるとは限らない。反対に、極端に大きな可動域がなくても、多様な運動課題へ適応できる場合もある。
 したがって、運動可能性=柔軟性ではない。重要なのは、利用できる運動の選択肢である。


39.開發は「柔らかくすること」でもない

 同様に、身体構造の開發を、身体を柔らかくすることと同一視することもできない。
 柔軟性は身体能力の一つである。しかし、関節可動域が拡大したからといって、それまで利用されていなかった身体構造が運動に参加するようになったとは限らない。
 また、大きな可動域を獲得しても、その可動域を実際の運動の中で制御・利用できなければ、運動可能性が同じ意味で拡張したとは言えない。
 したがって、開發=柔軟性向上ではない。身体構造の開發で問題となるのは、どれだけ大きく動けるかだけではなく、何を、どのように、どのような関係で動かせるかである。


40.開發は「脱力すること」でもない

 同じことは「脱力」についても言える。
 身体開發と言うと、力を抜く。身体を緩める。筋緊張を低下させる。といった方向が重視されることがある。
 しかし、身体構造の開發は単なる弛緩ではない。必要な時には力を発揮する。必要がなくなれば解除する。身体構造の運動に応じて力の発揮方法を変える。
 つまり、開發された身体=常に力の抜けた身体ではない。むしろ、身体構造の運動可能性に応じて、力のあり方そのものを変化させられる身体と考える方が適切である。


41.開發は「弱い身体」をつくることではない

 「筋力より身体の使い方が重要だ」という主張が極端になると、筋力は必要ないという逆方向の誤解が生じる。
 しかし、身体運動には力が必要である。走る。跳ぶ。持つ。押す。引く。投げる。これらには筋活動が関与する。
 したがって、身体構造の開發と筋力発達を対立させる必要はない。
 問題なのは、筋力があることではなく、その筋力が、どのような身体構造と運動の中で使用されているかである。


42.「筋力か、技術か」という二者択一を超える

 スポーツでは、「筋力が重要なのか」「技術が重要なのか」という議論が行われることがある。
 しかし実際の身体運動では、両者は完全には分離できない。技術を実現する身体には一定の能力が必要である。
 一方、どれだけ筋力が高くても、その力を運動課題の中で適切に使用できなければ、競技パフォーマンスへそのまま反映されるとは限らない。
 したがって、筋力か技術かではなく、身体能力がどのような運動構造の中で発揮されているかを見る必要がある。
 ここに、身体構造という第三の視点を導入する意味がある。


43.同じ筋力でも、運動結果は同じとは限らない

 仮に二人の人物が、同程度の最大筋力をもっているとする。しかし、その二人が同じ運動能力を示すとは限らない。
 関節運動が異なる。タイミングが異なる。身体各部の協調が異なる。外力の利用方法が異なる。身体構造間の関係が異なる。
 したがって、筋力という一つの能力値だけでは、身体運動全体を説明できない。これは筋力の価値を否定する話ではない。
 むしろ、筋力という能力が、どのような身体運動の中で使用されるかによって、その意味が変わるということである。


44.「能力」と「使い方」は掛け算なのか

 身体能力と運動技能を、能力 × 使い方という比喩で考えることもできる。
 能力が高くても、使い方が課題に適合していなければ、その能力を十分に発揮できない。
 反対に、効率的な運動方法を知っていても、その課題に必要な能力が不足していれば、パフォーマンスには限界がある。
 したがって、能力を高めることと、能力を利用する身体を開發することは、互いに補完的である。
 ただし、実際の生体は単純な掛け算で説明できるわけではない。
 ここで重要なのは、両者を別の変数として認識することである。


45.「身体を鍛える」のではなく、「何を鍛えるか」

 ここまでの議論から、「身体を鍛える」という言葉の曖昧性が見えてくる。
 身体全体を一つの能力として「鍛える」わけではない。筋力を鍛える。筋持久力を鍛える。心肺持久力を高める。特定の運動技能を反復する。特定課題への適応能力を高める。実際には、こうした具体的な変化が起きている。
 したがって、「身体を鍛える」という包括語から、「身体の何を、どの方向へ変化させるのか」という具体的な問いへ移行する必要がある。


46.「身体を開發する」時も同じである

 一方、「身躰開發」という言葉も、曖昧な万能語にしてはならない。
 開發とは何なのか。身体感覚なのか。関節運動なのか。骨格認識なのか。運動選択肢なのか。身体各部の協調なのか。これらを具体化する必要がある。
 したがって、鍛えるという言葉だけを批判して、開發という言葉を無条件に正しい概念として置くことも適切ではない。
 重要なのは、言葉ではなく、身体に実際に何が起きたのかを見ることである。


47.開發は「何かを足す」ことではない

 筋力増強では、能力値が増加するという意味で「増やす」という表現が比較的分かりやすい。
 しかし、身体構造の開發は必ずしも何かを身体へ新しく追加することではない。
 例えば骨格構造そのものは、すでに存在している。しかし、その構造を運動の中で十分に利用していない場合がある。
 したがって開發とは、存在していなかった構造をつくるのではなく、存在している構造の運動可能性を顕在化させることとして考えることができる。
 ここに「増強」と「開發」の重要な違いがある。


48.「所有している身体」と「使える身体」

 人間は多数の身体構造を所有している。しかし、所有していることと、運動として利用できることは同じではない。
 骨がある。関節がある。しかし、その存在を認識していない。或いは、その構造がどのように動くのかを身体として経験していない。
 この場合、解剖学的には存在しているが、運動可能性としては十分に顕在化していないと捉えることができる。
 したがって、身体開發とは、「持っている身体」を「使える身体」へ変えていく過程とも表現できる。


49.「使える」という言葉にも注意が必要である

 ただし、「使える身体」という表現にも慎重さが必要である。
 身体を道具のように捉え、「自分が身体を使う」という主体―客体の二分法を前提とする可能性があるからである。
 人間は身体を外部から操作しているわけではない。身体を使っている主体もまた、身体を持つ人間そのものである。
 したがって、「使える」という表現は便利ではあるが、より厳密には、身体構造が運動の中で利用可能になる、或いは、身体の運動可能性が顕在化すると表現することもできる。


50.開發とは「身体の解像度」を上げることなのか

 身体構造を開發していく過程では、それまで一つの塊として認識していた身体領域が、より細かく認識されることがある。
 「脚」だったものが、大腿。下腿。足部。更に個々の骨や関節へと分化して認識される。
 「背中」だったものが、脊柱。胸郭。肩甲帯。更に複数の構造へと分かれて認識される。
 この意味では、身体開發とは、身体認識の解像度を高める過程という側面も考えられる。
 しかし、分けて認識するだけでは十分ではない。分けた構造を、再び関係の中で運動させる必要がある。


51.分けて動かすことと、全身で動くこと

 身体構造を細かく認識できるようになると、一つの部位をより詳細に動かせるようになる可能性がある。
 しかし、それだけでは身体全体の運動が良くなるとは限らない。
 重要なのは、分けられることと、繋げられることの両方である。
 一つ一つを認識できる。一つ一つを動かせる。そして、それらを全身運動の中で関係させられる。
 したがって、身体開發とは、身体を細分化することではなく、細分化して認識できる身体を、再び全体として組織化できるようにすること考えることができる。


52.「鍛える」は量的変化、「開發」は質的変化なのか

 ここまでの議論から、鍛錬=量的変化、開發=質的変化と整理したくなる。しかし、これも完全な二分ではない。
 筋力トレーニングによって運動制御が変化することもある。身体開發によって結果的に筋力発揮が向上することもある。
 したがって、量と質を完全に分離することはできない。それでも概念上、どれだけできるかを主に問うのか、どのようにできるか、何ができるようになったかを主に問うのか、という違いは存在する。


53.「鍛錬」と「開發」は評価方法が違う

 鍛錬では、比較的明確な数値評価が可能な場合がある。重量。回数。速度。距離。時間。跳躍高。
 一方、身体構造の開發では、これまで認識できなかった構造を認識できるか。新しい関節運動が可能になったか。異なる運動選択肢を使えるか。身体各部の関係が変化したか。といった評価が必要になる。
 したがって、開發を、鍛錬と同じ物差しだけで測ろうとすると、重要な変化を見落とす可能性がある。


54.数値化できないことと、検証できないことは違う

 ただし、「身体開發は感覚だから数値化できない」として、すべてを主観へ委ねることにも問題がある。
 数値化が難しい現象でも、動作を観察する。可動性を比較する。運動課題を設定する。再現性を見る。介入前後を比較するといった検証は可能である。
 したがって、数値になりにくい=科学的に扱えないではない。
 同時に、本人がそう感じた=客観的に身体構造が変化したでもない。
 主観と客観を区別しながら検討する必要がある。


55.「身体が開いた」という言葉をどう扱うか

 身体実践の世界では、「身体が開いた」「身体が繋がった」「身体が通った」といった表現が用いられることがある。
 これらは実践者の経験を伝える言葉として意味をもつ。
 しかし研究上は、何が変化したことを「開いた」と呼んでいるのかを明確にする必要がある。
 身体感覚なのか。関節運動なのか。姿勢なのか。運動範囲なのか。協調性なのか。
 したがって、身体開發という概念を学術的に扱うためには、実践語を具体的な観察対象へ翻訳する作業が必要になる。


56.「鍛える」と「開發する」は時間軸も異なる

 鍛錬では、一定期間の反復によって適応を積み重ねることが多い。
 一方、身体開發では、ある瞬間に、「こんなところが動くのか」と新しい身体認識が生じる場合がある。
 つまり、発見そのものは一瞬で起こり得る。
 しかし、その新しい運動を安定して再現し、実際の身体能力として定着させるためには反復が必要になる。
 ここで、発見 → 学習 → 定着 → 鍛錬という過程を考えることができる。


57.開發しただけでは、能力にはならない

 新しい運動可能性を一度経験した。それだけで、高度な身体能力が完成するわけではない。
 再現できる。速度を変えてもできる。負荷が加わってもできる。疲労時にもできる。複雑な課題の中でもできる。そこまで進むためには、反復と適応が必要になる。   
 したがって、開發は可能性を開く。鍛錬は、その可能性を能力として育てるという関係を設定することができる。
 これは両者を対立させないために重要な視点である。


58.鍛錬は「開發された身体」を強くする

 この視点に立つと、鍛錬の意味そのものが変わる。
 開發前の身体で100回反復する。開發後の身体で100回反復する。
 外見上は同じ種目でも、身体内部で使用される運動可能性が異なれば、学習されるものも同じとは限らない。
 したがって、鍛錬とは、単に身体を強くするのではなく、その時点で身体がもっている運動様式を反復・強化する行為でもある。
 ここから、何を鍛えるかの前に、どのような身体を鍛えるのかという問いが生じる。


59.「鍛える前に開發する」の本当の意味

 したがって、鍛える前に開發するという言葉は、トレーニングを否定する言葉ではない。むしろ逆である。
 鍛錬の効果を、現在ある一つの身体使用だけへ閉じ込めないために、先に身体の運動可能性を広げる。そして、その広がった身体を鍛える。
 つまり、開發 → 鍛錬である。更に鍛錬の中で新たな課題が見つかれば、再び開發する。そしてまた鍛える。
 したがって実際には、開發 ⇄ 鍛錬という循環として捉えることができる。
 開發によって新しい運動可能性が生まれる。その可能性を反復し、負荷を与え、能力として育てる。
 すると、その鍛錬の過程で新たな身体的課題が見えてくる。そこで再び身体構造へ戻り、新しい運動可能性を開く。そして、また鍛える。
 つまり、開發して、鍛える。鍛えることで、さらに開發する。身体は、この循環によって変化し続ける。


60.鍛錬は「完成」のためではない

 一般にトレーニングには目標がある。
 100kgを持ち上げる。100回できるようになる。一定距離を速く走る。競技記録を更新する。目標設定は重要である。しかし、身体そのものに「完成」という地点が存在するとは限らない。
 能力が向上すれば、次の課題が現れる。新しい運動を獲得すれば、さらに別の可能性が見える。身体は学習し続ける。適応し続ける。
 したがって、身体開發も鍛錬も、完成品としての身体をつくる作業ではない。
 むしろ、変化し続けられる身体を育てる過程として捉えることができる。


61.「強くする」だけでなく、「変われる身体」をつくる

 鍛錬によって特定能力を高めることには大きな価値がある。
 しかし、身体能力を最大値だけで評価すると、変化する能力が見えにくくなる。
 強い。速い。長く続く。これらに加えて、異なる動きへ移れる。環境が変われば対応できる。課題が変われば運動方法を変えられる。新しい運動を学習できるという能力も存在する。
 したがって、身体能力とは、現在何ができるかだけではなく、これから何を獲得できるかという可塑性まで含めて考えることができる。


62.「鍛え抜かれた身体」が変化できないという逆説

 ある課題へ高度に適応した身体は、その課題では非常に高い能力を発揮する。
 しかし、適応が高度になるほど、特定の運動様式へ専門化する場合もある。これは競技能力としては必要なことである。
 問題は、専門化された能力と、身体全体の運動可能性を同一視することである。
 ある競技で極めて優秀であることは、その競技において高度に適応していることを意味する。
 しかし、それだけで身体のあらゆる運動可能性が開かれていることを意味するわけではない。
 したがって、鍛え抜かれた身体と、開發された身体は、重なる部分をもちながらも同義ではない。


63.「強さ」と「自由度」

 ここから、身体を評価するもう一つの軸が現れる。それが、自由度である。
 ここでいう自由度とは、単なる力学上の自由度だけを意味しない。身体が、どれだけ異なる運動を選択できるか。どれだけ身体各部を異なる関係で動かせるか。どれだけ環境変化へ対応できるか。という、運動可能性としての自由である。
 強い身体。そして、自由な身体。この二つは別の評価軸として考えることができる。
 理想的には、強く、しかも自由である。身体開發と鍛錬を統合する意味は、ここにある。


64.「鍛えるほど自由になる」身体は可能か

 一般に、鍛錬は特定能力を強化する。
 しかし、その鍛錬が身体の運動選択肢を狭めるのではなく、むしろ広げる方向へ働くことは可能だろうか。
 これは重要な問いである。
 反復する。しかし、一つの動き方へ固定しない。負荷を高める。しかし、身体構造の運動可能性を失わない。能力を高める。しかし、他の運動へ移行できる自由を保つ。
 このような鍛錬が成立するならば、鍛錬と開發は別々の段階ではなく、一つの身体教育の中で統合される。


65.「鍛える」の再定義

 ここまでの議論を踏まえれば、「鍛える」という言葉そのものを、より広く再定義することも可能である。
 従来、鍛える=能力を強くするという意味が中心であった。
 しかし身体運動全体を考えるならば、能力を高める。運動を洗練する。新しい運動を獲得する。身体構造を認識する。環境への適応能力を高める。そして、それらを反復によって身体化する。こうした複数の変化を区別しながら考える必要がある。
 ただし、概念を広げすぎれば再び「鍛える」が何でも意味する言葉になってしまう。
 したがって本稿では、鍛錬と、開發の区別を残しておくことに意味がある。


66.鍛錬とは何か

 ここまでの議論から、本稿における鍛錬を次のように整理できる。
 鍛錬とは、一定の課題・負荷・反復を通して、既存の身体能力や運動技能を適応的に高め、定着させていく過程である。
 ここでは、強度。速度。持続時間。回数。精度。再現性。などの向上が主要な対象となる。
 つまり、既に存在する能力を、より高い水準へ育てる。これが鍛錬の重要な方向である。


67.開發とは何か

 一方、本稿における身体構造の開發は、既に存在する身体構造をより詳細に認識し、その構造がもつ運動可能性を顕在化させ、身体が利用可能な運動選択肢を拡張していく過程であると定義できる。
 ここでは、どれだけ強くなったかだけではなく、何ができるようになったかが重要になる。
 これまで一つの塊としてしか認識できなかった身体構造を、より詳細に認識する。これまで動かなかった関係が動く。これまで一つしかなかった運動方法に、別の選択肢が生まれる。
 つまり、身体の可能性そのものを開く。これが開發の方向である。


68.増強と開發

 ここで、本稿の副題へ戻る。能力の増強と身体構造の開發は同一か。
 答えは、同一ではない。
 能力増強とは、現在存在する能力をより高い水準へ変化させることを主に意味する。
 身体構造の開發とは、現在十分に利用されていない身体構造・身体認識・運動可能性を顕在化させることを主に意味する。
 したがって、増強=縦方向の変化開發=横方向への可能性の拡張という比喩で表すこともできる。
 ただし、実際の身体では両者は相互に作用する。


69.「強くなる」と「豊かになる」

 更に言葉を変えれば、鍛錬は身体を、強くする。開發は身体を、豊かにすると表現することもできる。
 ただし、「豊か」という言葉は科学的測定概念ではない。ここでは、利用可能な身体運動の選択肢が増えるという意味で使用している。
 強い身体には価値がある。しかし、強さだけが身体の価値ではない。速さ。持久力。可動性。協調性。適応性。運動選択肢。身体認識。身体には複数の次元が存在する。


70.「鍛えれば何とかなる」という身体観を問い直す

 身体に問題がある。だから鍛える。動けない。だから筋力をつける。姿勢が悪い。だから体幹を鍛える。競技力を上げたい。だからさらに負荷を増やす。
 こうした思考には、能力不足が身体問題の中心であるという前提が存在する場合がある。
 しかし、問題が能力不足ではなく、身体構造の認識や運動方法そのものにある可能性もある。
 その場合、更に鍛えることが唯一の解決策とは限らない。
 だからこそ、「もっと鍛えるべきか」の前に、「いま何が起きているのか」を問う必要がある。


71.「足りない」という身体観から離れる

 鍛錬中心の身体観では、筋力が足りない。柔軟性が足りない。持久力が足りない。体幹が弱い。というように、身体を「不足」という観点から見ることが多い。
 勿論、実際に能力不足が存在する場合はある。
 しかし身体には、足りないのではなく、まだ使われていないという可能性もある。
 骨はある。関節はある。構造はある。しかし、その運動可能性が十分に顕在化していない。
 ここで、不足と、未開發を区別する必要がある。


72.「不足」と「未開發」は違う

 これは本稿における重要な区別である。
 不足しているのであれば、増やす。未開發なのであれば、開く。筋力が不足しているなら、筋力を高める。持久力が不足しているなら、持久的能力を高める。しかし、存在している身体構造を運動として利用できていないのであれば、単純に「もっと強くする」という問題とは異なる。
 したがって、身体を変える前に、その問題が「不足」なのか「未開發」なのかを見極める必要がある。


73.「足す」身体観から「活かす」身体観へ

 この違いをさらに一般化すると、二つの身体観が見えてくる。
 一つは、足す身体観。筋肉を足す。能力を足す。強さを足す。
 もう一つは、活かす身体観。既にある骨を活かす。既にある関節を活かす。既にある身体構造の運動可能性を活かす。
 両者は対立しない。足すべきものは足す。しかし、既にあるものを使わないまま、足し続ける必要があるのかという問いは重要である。


74.身体開發とは「身体を増やすこと」ではない

 身体開發という言葉から、より高度な身体へ作り替えるイメージを持つかもしれない。
 しかし、身体構造そのものについて考えるなら、開發とは必ずしも身体を増やすことではない。
 むしろ、既に存在している身体へ気づくことでもある。
 これまで「脚」としか感じていなかったものの中に、多数の骨と関節がある。「背中」としか感じていなかったものの中に、複数の構造がある。
 つまり、身体開發とは、新しい身体を外から付け加えることではなく、既に存在していた身体を発見していく過程でもある。


75.「身体を鍛える」から「身体を研究する」へ

 ここから、身体実践の態度そのものも変化する。
 今日は何回やるか。何kg持つか。どれだけ速くするか。だけではなく、この運動で、自分の身体に何が起きているのかを見る。どこが動いているのか。どこが動いていないのか。どの構造が参加しているのか。どのような関係が形成されているのか。
 つまり、トレーニングそのものを身体研究の場にすることができる。


76.鍛錬は「身体との対話」になり得る

 鍛錬を、身体へ一方的に負荷を与える行為としてだけ捉える必要はない。
 負荷を与える。身体がどう応答するかを見る。運動がどう変化するかを見る。新しい課題を発見する。そして次の方法を変える。
 このように考えれば、鍛錬は身体へ命令する行為ではなく、身体から情報を受け取る行為にもなる。
 つまり、鍛錬そのものが、身体を知る方法になり得る。
 ここで鍛錬と開發は再び接続する。


結論――「鍛える」前に、何を変えようとしているのかを問う

 本稿では、「鍛える」という身体観を再検討してきた。
 その目的は、筋力トレーニングを否定することでも、鍛錬を否定することでもない。
 身体は負荷へ適応する。筋力は重要である。持久力も重要である。競技能力を高めるためには、専門的な反復も必要である。  
 問題なのは、身体を変えることのすべてを「鍛える」という一語で理解してしまうことである。
 身体には、強くなる変化がある。しかし、新しく動けるようになる変化もある。より重く。より速く。より長く。より多くという変化がある。
 一方で、今まで動かなかったものが動く。今まで認識できなかったものを認識する。一つしかなかった運動方法に別の選択肢が生まれるという変化もある。この二つは同じではない。
 したがって、能力の増強と、身体構造の開發は同一ではない。増強すべきものは増強する。しかし、未開發のものは開發する。そして、開發したものを、鍛える。ここに両者の接続がある。


「鍛える身体」そのものを問う

 身体を鍛える時、我々は通常、何をするかを考える。何回やるか。何kg使うか。どの種目を行うか。どの頻度で行うか。
 しかし、その前にもう一つ問いがある。「その運動をする身体は、どのような身体なのか。」
 同じ種目でも、身体の認識が違う。運動可能性が違う。身体構造の使われ方が違う。身体各部の関係が違う。ならば、その反復によって学習・強化されるものも同一とは限ない。
 したがって、何を鍛えるかだけではなく、どのような身体を鍛えるのかという問いが必要になる。


「鍛える」より前に、「ある」

 身体は、鍛える前から存在している。骨がある。関節がある。筋がある。脊柱がある。胸郭がある。骨盤がある。手がある。足がある。まず、ある。そして、その「あるもの」がどのように動けるのかを知る。その上で、必要な能力を鍛える。
 この順序を考えるなら、鍛えることは、身体づくりの出発点ではなく、その一つの段階である。という見方ができる。
 まず身体がある。その身体には構造がある。しかし、その構造がもつ運動可能性のすべてが、現在の身体運動として顕在化しているとは限らない。
 だから、知る。気づく。動かす。関係させる。そして、開發する。その上で、鍛える。この順序である。


「身体をつくる」という言葉の再検討

 我々は、「身体をつくる」という言葉をよく使う。筋肉をつける。体力をつける。身体能力を高める。これらも身体づくりである。
 しかし、人間の身体は、トレーニングを始める前から既に存在している。
 したがって、身体をゼロからつくっているわけではない。
 より正確には、既に存在している身体へ刺激を与え、その身体を変化させている。
 そう考えると、「身体づくり」という言葉の前に、「既にある身体を、どれだけ知っているのか」という問いが必要になる。


「鍛える身体観」と「開發する身体観」

 ここまでの議論を最も単純に整理すると、二つの身体観が見えてくる。
 一つは、鍛える身体観。現在の身体に負荷を与え、能力を高める。
 もう一つは、開發する身体観。現在の身体構造をより詳細に認識し、そこに存在する運動可能性を顕在化させる。
 前者が問うのは、「どこまでできるか」である。後者が問うのは、「何ができるのか」である。
 更に言えば、鍛錬は、能力の上限を上げる。開發は、可能性の範囲を広げる。両者は異なる。しかし、対立しない。


強くする前に、何を強くするのか

 ここに、「鍛える」という身体観を再検討する最大の意味がある。
 強くする。しかし、何を強くするのか。速くする。しかし、どのような動きを速くするのか。反復する。しかし、どのような身体使用を反復するのか。100回行う。しかし、その100回で、身体は何を学習しているのか。ここまで問わなければならない。
 なぜなら、鍛錬とは、単に能力を増やす行為ではなく、その時点の身体使用を反復し、適応させる行為でもあるからである。


身体は「負荷」にだけ適応するのではない

 身体は、重量。回数。速度。距離といった負荷だけに適応しているわけではない。 動き方そのものにも適応する。どの関節を使ったか。どの身体部位を固定したか。どの順序で動いたか。どの身体構造を運動へ参加させたか。それらも反復される。
 したがって、トレーニングとは「何kgだったか」だけではない。その負荷の中で、身体が何をしていたのか。ここまで含めてトレーニングなのである。


「鍛える前に開發する」は、鍛錬を軽視する思想ではない

 この点は明確にしておきたい。
 鍛える前に開發するという考え方は、鍛錬を否定する思想ではない。筋力を否定するものでもない。負荷を否定するものでもない。
 むしろ、鍛錬するからこそ、その前提となる身体を豊かにしておくという考え方である。
 一つしか運動方法をもたない身体を鍛えるのか。多数の運動可能性をもつ身体を鍛えるのか。同じ負荷でも意味は異なる。
 したがって、開發は鍛錬の敵ではない。開發は、鍛錬する身体そのものを変えるのである。


「鍛える」から「開發して鍛える」へ

 ここから、身体づくりの考え方を一段進めることができる。
 従来、鍛えるだったものを、開發して、鍛えるへ変える。
 更に、鍛錬によって新たな身体課題が見つかれば、再び開發する。そして、また鍛える。
 したがって、開發 → 鍛錬 → 開發 → 鍛錬……という循環が生まれる。身体に完成がないのであれば、この循環にも最終地点はない。
 身体は変化し続ける。だから、開發も続く。鍛錬も続く。


「増やす」だけではなく、「発見する」

 鍛錬では、増やす。という方向が重要になる。
 筋力を増やす。回数を増やす。速度を上げる。持続時間を延ばす。
 一方、開發には、発見するという方向がある。こんなところが動く。こんな関節がある。こんな運動ができる。こんな身体の使い方がある。
 つまり、鍛錬が「能力の増加」をもたらすなら、開發は「身体の発見」をもたらすと言うこともできる。そして、発見した身体を、再び鍛える。


「ないものねだり」から「あるもの活かし」へ

 身体について考えると、我々は不足へ目を向けやすい。筋肉が足りない。筋力が足りない。柔軟性が足りない。持久力が足りない。 
 だから、足す。しかし、その前に、既に何があるのかを見る。骨がある。関節がある。身体構造がある。運動可能性がある。まだ十分に認識されていないだけかもしれない。まだ十分に運動へ参加していないだけかもしれない。
 そう考えるなら、身体づくりには、足りないものを足すという方向だけでなく、既にあるものを活かすという方向が存在する。
 つまり、無いものねだりより、有るもの活かしという身体観である。


「弱い」の前に、「使えているか」

 身体を見て、「ここが弱い」と評価する前に、一度問い直す。
 そもそも、そこは運動に参加しているのか。使われていないものを、更に鍛えることはできるのか。或いは、まず運動として参加できる状態をつくる必要があるのか。
 ここで、弱いと、未開發の区別が重要になる。弱ければ鍛える。未開發なら開く。
そして、開いたものを鍛える。この順序である。


身体開發は「能力開發」より前にあるのか

 一般に「能力開発」という言葉がある。しかし身体について考えるならば、能力を開発する前に、その能力を生み出す身体そのものの運動可能性を開くという考え方もできる。
 つまり、身体構造の開發→運動可能性の拡張→反復・学習→能力化→鍛錬による増強という流れである。
 勿論、実際の身体ではこの過程は直線的ではない。互いに行き来する。
 それでも概念的に分けることで、いま自分が何を変えようとしているのかが明確になる。


最終結論――「鍛える」の前に、「開く」

 「身体を鍛える」。この言葉は間違っていない。
 人間には鍛錬が必要である。能力を高めるためには反復が必要である。負荷も必要である。
 しかし、鍛えることだけが、身体を変える方法ではない。
 身体には、強くなる以前に、まだ動いていない可能性がある。速くなる以前に、まだ知らない動きがある。回数を増やす以前に、まだ認識していない身体構造があるかもしれない。
 だから、鍛える前に、身体を見る。身体を知る。構造を知る。動きを知る。そして、開く。その上で、鍛える。
 身体を、足りないものとしてだけ見ない。身体には、既にあるものがある。その存在へ気づき、その可能性を運動として顕在化させ、それを能力として育てる。
 この順序で考えるなら、身体開發とは、鍛錬以前の身体を否定することではない。既に存在している身体の可能性を、より深く発見していくことである。
 そして鍛錬とは、その発見された身体を、現実の能力として育てていくことである。
 したがって、開發は、鍛錬の代わりではない。鍛錬も、開發の代わりではない。両者は異なる。だからこそ、両方が必要になる。


開發して、鍛える。

 鍛えて、また開發する。この循環によって、身体は、ただ「強くなる」だけではなく、できることそのものを増やしていく。
 そして最後に、身体づくりの問いは、「どれだけ鍛えたか」から、「どれだけ身体を知ったか」へ、更に、「その身体から、どれだけの可能性を開いたか」へと進んでいく。 
 故に、「鍛える」とは、身体開發のすべてではない。それは、開かれた身体を、能力へと育てる一つの過程である。
 そして身体開發とは、身体に何かを足すことから始まるのではない。既にそこにある身体を、発見することから始まる。
 無いものを足す前に、有るものを知る。有るものを知り、有るものを開く。そして、開いたものを、鍛える。
 これが、「鍛える」という身体観から、「開發して鍛える」という身体観への転換なのである。

身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi

 


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