
身躰構造學研究所・研究論考
「立甲」再考
―肩胛骨内側縁の突出から肩帯骨格の相対運動へ
フィジカリストOuJi
身躰構造學研究所
要旨
本稿は、武術・身体訓練の一部で用いられてきた「立甲」と、近年広く流布している「肩甲骨はがし」を、肩胛骨の形態および肩帯を構成する骨間関係から再検討するものである。
肩胛骨と胸郭との間には、四肢の多くの関節にみられるような相対する関節面、関節軟骨、関節包、滑膜を備えた滑膜性関節は存在しない。一般に「肩甲胸郭関節」と呼ばれる構造は、肩胛下筋、前鋸筋および滑液包などを介して肩胛骨が胸郭上を滑走する機能的関節である。したがって、肩胛骨内側縁あるいは下角を胸郭から突出させる現象そのものを、肩胛骨運動の本体とみなすことには再検討の余地がある。
本稿では、肩胛骨運動を「肩胛骨単体の移動」としてではなく、鎖骨・上腕骨・胸郭を含む肩帯複合体の相対運動として記述する。特に肩鎖関節および胸鎖関節における鎖骨運動、肩甲上腕関節における上腕骨との関係、更に肩峰下領域における上腕骨近位部との空間関係に着目する。その上で、身躰構造學における「立鎖」および互動法を、肩胛骨内側縁を意図的に突出させる操作とは異なる肩帯操作として位置づける。
更に、四足性哺乳類にみられる鎖骨の縮小・痕跡化と肩胛骨運動との関係を参照し、人間が四足動物の前肢外形を直接模倣することの構造的限界について考察する。
キーワード: 肩胛骨/立甲/肩甲胸郭関節/肩鎖関節/胸鎖関節/肩甲上腕関節/肩峰下領域/鎖骨/立鎖/互動法/身躰構造學
一.問題の所在―「肩胛骨が動く」とは何を意味するのか
「肩胛骨を動かす」という表現は、運動指導、武術、トレーニング、リハビリテーションなどで広く用いられている。
しかし、この表現には一つの問題がある。
肩胛骨が動いたという時、肩胛骨は何に対して動いたのか。
骨の運動は、空間内に孤立した単一骨の位置変化だけでは記述できない。少なくとも身体構造を運動学的に扱う場合には、隣接する骨との相対的位置関係を明示する必要がある。
肩胛骨の場合、この問題は特に重要である。
肩胛骨の内側面は胸郭上に位置するが、肩胛骨と肋骨との間に通常の滑膜性関節は存在しない。いわゆる肩甲胸郭関節は、肩胛下筋と前鋸筋などを介して成立する滑走機構であり、解剖学的な意味での「真の関節」ではない。関節軟骨、滑膜、関節包を備えた骨性関節とは構造が異なる。
したがって、「肩胛骨が胸郭上を動いて見える」ことと、「肩胛骨を構成要素とする骨性関節がどのように動いたか」は区別しなければならない。
ここを区別しないまま肩胛骨の外形だけを操作すると、「肩胛骨を動かす」という言葉が、実際に生じている骨間運動を覆い隠す可能性がある。
二.肩甲胸郭関節は「骨と骨の関節」ではない
肩甲胸郭関節という名称は、一見すると肩胛骨と胸郭との間に通常の関節が存在するような印象を与える。
しかし実際には異なる。
肩胛骨前面と胸郭後面との間には、肩胛下筋、前鋸筋、滑液包などの軟部組織が介在する。ここには通常の滑膜性関節にみられる関節軟骨、関節包、滑膜によって構成された関節腔は存在しない。
したがって、「肩甲胸郭関節が動く」という記述は、解剖学的には肩胛骨と胸郭との相対的位置変化を便宜的に表現しているのであって、そこに独立した滑膜性関節が存在して運動しているという意味ではない。
この区別から、立甲を考え直すことができる。
立甲で視覚的に強調されるのは、多くの場合、肩胛骨内側縁および下角が胸郭から突出する形態である。
しかし肩胛骨内側縁には、肋骨との滑膜性関節は存在しない。
したがって、肩胛骨内側縁が胸郭から離れたという外形だけでは、肩帯のどの骨性関節に、どのような運動が生じたのかは分からない。
「浮いた」という結果と、「どの骨がどう動いたか」という運動記述は別問題なのである。
三.肩胛骨運動を成立させる骨間関係
肩胛骨運動を骨格から考える場合、まず肩鎖関節を無視することはできない。
肩鎖関節は肩峰と鎖骨外側端によって構成される滑膜性関節であり、肩胛骨と鎖骨との相対運動を許容する。
更に鎖骨は、胸鎖関節によって胸骨と関節する。
したがって肩胛骨の位置変化は、肩胛骨―鎖骨、鎖骨―胸骨という連続した骨間関係の中で生じる。
実際、肩甲胸郭上方回旋は肩鎖関節運動だけで成立するのではなく、胸鎖関節における鎖骨の挙上・後方回旋などとの連成によって成立することが報告されている。
ここから、「肩胛骨だけを動かす」という表現の問題が更に明確になる。
肩胛骨の位置が変化したなら、少なくとも鎖骨との位置関係を検討する必要がある。
上肢運動を伴う場合には、更に上腕骨との関係が加わる。
肩甲上腕関節では、肩胛骨関節窩と上腕骨頭との相対運動が生じる。腕の挙上時には肩胛骨・鎖骨・上腕骨が協調して運動することが多数の三次元運動解析によって確認されている。
したがって肩胛骨運動は、肩胛骨だけの問題ではない。鎖骨、上腕骨、胸郭との関係を含めて初めて記述できる。
四.「立甲」の構造的問題
ここで立甲を改めて考える。
問題は、肩胛骨内側縁が突出すること自体を直ちに異常とみなすことではない。
問題は、
その外形を「肩胛骨がよく動いている証拠」とみなせるのかという点にある。
肩胛骨内側縁が大きく突出していても、それだけでは肩鎖関節、胸鎖関節、肩甲上腕関節にどのような相対運動が生じているかは分からない。
逆に、肩胛骨内側縁が大きく突出しなくても、肩鎖・胸鎖関節を含む肩帯複合体には明確な三次元運動が生じうる。
したがって、立甲の評価を、「肩胛骨がどれだけ背中から浮いたか」という視覚的指標だけに依存させることはできない。
評価すべきなのは、外形ではなく骨間関係である。
五.「肩甲骨はがし」をどう捉えるか
「肩甲骨はがし」という名称も、構造上興味深い。
施術では肩胛骨内側縁と胸郭との間へ指を入れ、軟部組織を介して肩胛骨の可動性を引き出す操作が行われる場合がある。
ここで重要なのは、なぜ指を入れることができるのかである。
肩胛骨内側縁と肋骨との間には滑膜性関節が存在しない。
両者の間には筋・筋膜・滑液包などの軟部組織による滑走面が存在する。だからこそ、そこへ徒手的に介入する余地が生じる。
しかし、ここから直ちに、「癒着の原因は肩鎖・肩甲上腕・肩峰下の運動不足である」とは断定できない。
この因果関係については、現在の研究だけでは十分に実証されていない。
ここは身躰構造學として仮説を明示する必要がある。
本稿で提示する仮説は、肩胛骨内側縁の滑走性低下そのものを一次的問題として扱うのではなく、肩帯を構成する骨性関節の運動低下によって生じた二次的現象として検討すべきではないか、というものである。
この仮説が正しければ、介入対象は「剥がす場所」から「運動を回復させる骨間関係」へ移る。
ここに立甲・肩甲骨はがしとは異なる方向が生まれる。
六.肩峰下領域を「関節」と呼ぶ場合の注意
身躰構造學では肩峰下関節を、肩胛骨と上腕骨との運動関係を考える重要な構造として扱う。
ただし、学術論文では用語を限定しておく必要がある。
肩峰下関節、或いは「第2肩関節」と呼ばれる領域は、肩甲上腕関節や肩鎖関節と同じ意味での典型的な滑膜性関節ではない。
肩峰・烏口肩峰靱帯によるアーチと、上腕骨頭・大結節・腱板などとの間に成立する機能的空間である。
したがって本稿では、肩峰下領域を上腕骨と肩胛骨との相対運動を検討する機能的運動領域として扱う。
この整理をしておけば、「肩甲胸郭関節は擬似関節だから除外するのに、なぜ肩峰下関節は採用するのか」という矛盾も避けられる。
重要なのは名称ではなく、実際にどの骨とどの骨との位置関係が変化しているのかである。
七.四足動物の前肢構造と鎖骨
立甲を説明する際、チーターなど四足性哺乳類の前肢構造が引き合いに出されることがある。
ここにも慎重な検討が必要である。
走行性の高い哺乳類では、鎖骨が縮小または消失している例が多い。鎖骨による骨性拘束が減少することで肩胛骨の前後移動が拡大し、走行時の歩幅増大に寄与すると考えられている。
ただし、チーターを含むネコ科では鎖骨が完全に消失しているわけではない。
チーターには痕跡的鎖骨が確認されている。これは人間のように胸骨と肩峰を骨性に連結する完全な鎖骨とは異なり、肩帯に対する拘束性も大きく異なる。
この事実は、むしろ立甲を考える上で重要である。
人間には発達した鎖骨があり、胸鎖関節と肩鎖関節を介して上肢帯を体幹へ骨性に連結している。
したがって、人間がチーターの前肢外形だけを模倣しても、骨格条件そのものは同じにならない。
ここで必要になるのは、形態模倣ではなく構造差の処理である。
八.「立甲」から「立鎖」へ
身躰構造學では、この問題に対して立鎖という操作概念を置く。
立鎖の目的は、鎖骨を文字通り消失させることではない。
また、チーターの肩帯を人間に再現することでもない。
人間に存在する鎖骨を固定物として残したまま肩胛骨だけを操作するのではなく、鎖骨そのものを運動へ参加させることにある。
人間の鎖骨は胸鎖関節で胸骨と、肩鎖関節で肩胛骨と関係する。
したがって鎖骨が動けば、両端における骨間関係が変化する。
実際、上肢挙上時には鎖骨の挙上、後方回旋、前後方向の運動と肩胛骨運動が連成している。
身躰構造學では、ここへ互動法を適用する。
肩胛骨を単独の運動主体として扱うのではなく、肩胛骨と関節関係を持つ骨を同時に考察する。とりわけ重要となるのが、上腕骨および鎖骨である。
上腕骨を操作すれば、肩胛上腕関節における肩胛骨との位置関係が変化する。鎖骨を操作すれば、肩鎖関節における肩胛骨との位置関係が変化する。更に上肢挙上時には、肩峰下空間における上腕骨近位部、腱板、肩峰等の位置関係も変化する。
したがって、肩胛骨の運動を回復・開発しようとする場合、胸郭上にある肩胛骨内側縁を直接「剥がす」ことだけを目的とするのではなく、肩胛骨外側上部に集中する骨・関節関係をどのように運動させるかという問題へ移行する必要がある。
互動法では、骨の一端のみを固定的に動かすのではなく、骨の両端が互いに位置を交換するような運動を扱う。上腕骨および鎖骨についても、それぞれを固定された棒として扱わず、骨全体に互動を成立させることによって、肩胛上腕関節および肩鎖関節における相対運動を導く。
この観点からみれば、肩胛骨内側縁の可動性は、必ずしも最初に直接獲得すべき対象ではない。上腕骨・鎖骨・肩胛骨の関係が変化し、その結果として胸郭上における肩胛骨の位置と滑走が変化する、という順序を検討する必要がある。
ここに、「剥がす」と「動く」との違いがある。
前者は肩胛骨内側縁と胸郭との距離を外形的に増大させることを指標としうる。後者は、肩胛骨に関係する複数の骨・関節の相対的位置が運動の過程で変化することを意味する。両者は同義ではない。
同様に、「立甲」と「肩胛骨が構造的に運動すること」も区別しなければならない。
立甲によって肩胛骨内側縁や下角が胸郭から突出して見えることは、それ自体では肩胛上腕関節、肩鎖関節その他の肩複合体に十分な相対運動が成立していることを証明しない。評価すべきなのは肩胛骨の突出量ではなく、肩胛骨がどの骨との関係を変え、その際に相手側の骨がどのように運動しているかである。
更に四足哺乳類との比較においても、外形だけを模倣することには慎重でなければならない。
走行性の四足哺乳類には鎖骨を欠く、或いは著しく退縮した種が多く、肩甲帯と体幹との骨性連結様式はヒトと同一ではない。したがって、チーター等にみられる前肢配置を、そのままヒトの肩胛骨配置へ置き換えることはできない。
九. ヒトには鎖骨が存在する。
ならば、四足動物の前肢構造から何らかの運動原理を人間へ応用しようとする場合、鎖骨の存在を無視するのではなく、鎖骨を含めた肩甲帯全体の運動として再構成しなければならない。
身躰構造學における「立鎖」は、この問題から設定される。
立鎖では、鎖骨を静的な支持材として固定するのではなく、その長軸方向の回旋を含む運動を扱い、上腕骨との運動関係を検討する。ここで言う「鎖骨と上腕骨の一本化」とは、両骨が解剖学的に一本の骨になることではない。両者の運動方向および時間的関係を調整することで、上肢―肩甲帯を一つの連動系として機能させるという、身躰構造學上の操作概念である。
したがって、立甲の問題を検討することは、単に一つの身体技法を肯定または否定することではない。
問題の中心にあるのは、「肩胛骨が動く」とは、構造上何が起きることなのか、という問いである。
肩胛骨の運動を肩胛骨だけで説明しない。胸郭上の滑走だけでも説明しない。
上腕骨、鎖骨、肩胛骨、胸郭、およびそれらの間に成立する関節・滑走関係を区別した上で、どの骨が、どの骨に対して、どの方向へ運動したのかを記述する。
この視点に立てば、肩胛骨内側縁が浮いているという外形だけを以て肩胛骨機能の向上と判断することも、内側縁へ指を入れられることを以て可動性の指標とすることも、再検討の対象となる。
必要なのは、肩胛骨を「剥がす」ことではない。
肩胛骨が、関係する骨とともに運動できる構造を成立させることである。
そのために上腕骨をどう動かすのか。鎖骨をどう動かすのか。それによって肩胛上腕関節、肩鎖関節、肩峰下空間、そして胸郭上の肩胛骨滑走がどのように変化するのか。
ここまでを一つの系として検証することによって、初めて「立甲」「肩甲骨はがし」「立鎖」を、見た目や感覚ではなく、骨運動と相対運動の問題として比較することができる。
これが、本稿から導かれる次の研究課題である。
身躰構造學研究所
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