「身体の使い方」から「身体の在り方」へ
―身体概念における body・physical・「体」・「身」の再検討

要旨

 身体運動をめぐる現代の言説では、「身体の使い方」「身体操作」「身体を上手く使う」といった表現が広く用いられている。しかし、「使う」という表現には、身体を何らかの目的のために操作する対象として捉える身体観が含まれている。

 一方、人間の身体は、使用される以前からすでに存在している。骨格、筋、腱、靱帯、神経系、呼吸・循環機能等を備え、さらに過去の運動経験、生活習慣、身体認識等によって、その時点における固有の身体状態を形成している。同じ運動課題を与えられても、その課題を遂行する身体側の状態が異なれば、生じる身体運動も同一とは限らない。

 本稿では、この運動以前から存在する身体側の条件を「身体の在り方」として捉える。そして、body と physical、日本語の「体」と「身」をめぐる言語的問題を整理するとともに、身体構造、環境、目的、他者との関係まで視野を広げ、「身体の使い方」から「身体の在り方」へと身体研究の視点を拡張する。

キーワード: 身体、身体の在り方、身体操作、身体運動、body、physical、身、体、身体構造、身躰開發


Ⅰ 問題提起

1.「身体の使い方」という言葉

 身体運動について語る際、「身体の使い方が上手い」「正しい身体の使い方」「身体を上手く使う」「身体操作を学ぶ」といった表現が用いられる。
 これらは便利な言葉である。しかし、「使う」という動詞には、一つの身体観が含まれている。
 道具を使う。機械を使う。箸を使う。そして、身体を使う。
 この文法構造では、「使う主体」と「使われる対象」が分離される。
 では、身体を使っている主体とは何なのか。身体とは別に存在する「私」が、所有物としての身体を操作しているのだろうか。
 勿論、「身体を使う」という日常表現そのものを否定する必要はない。問題は、その表現だけによって身体運動を捉えると、身体が「操作される対象」として前景化しやすいことである。
 身体は単なる道具ではない。人間は身体を所有しているだけではなく、身体として存在している。この視点から、「身体の使い方」という概念そのものを再検討する必要がある。


2.使い方以前に身体は存在する

 身体を使う以前に、身体はすでに存在している。
 しかも、その身体は中立的な白紙状態ではない。
 骨格構造がある。筋・腱・靱帯がある。神経系がある。呼吸・循環機能がある。そして、過去の生活、運動経験、職業、競技、姿勢習慣、身体学習等によって、現在の身体状態が形成されている。
 したがって、同じ「使い方」を教えたとしても、すべての人間に同一の身体運動が生じるとは限らない。
 方法を実行する以前に、その方法を実行する身体が、すでに存在している。
 この当然の事実を、身体運動を考える出発点に置く必要がある。


3.「身体の在り方」の定義

 本稿では、この問題を捉えるために「身体の在り方」という概念を用いる。
 ここでいう身体の在り方とは、哲学的存在論一般や精神性を意味するものではない。
 ある時点において、身体を構成する構造・機能・感覚・運動関係が、どのような状態として成立しているか。
 これを「身体の在り方」と呼ぶ。
 したがって、
 身体の使い方=何を、どのようにするかに対して、身体の在り方=それを行う身体が、現在どのような状態にあるかという区別が成立する。
 「何をするか」だけでなく、「何をする身体が、どうなっているのか」を問う概念である。


Ⅱ 言語から身体概念を考える

4.body と physical

 身体概念を考える上で、英語の body と physical の違いは慎重に扱う必要がある。
 body は基本的に名詞であり、身体あるいは物体等を意味する。一方、physical は主として形容詞であり、身体的、物質的、物理的等を意味する。
 したがって、body=外面、physical=内面という一対一の対応を、一般的な英語上の定義として提示することはできない。
 しかし、physical という語を、身体を外形だけではなく、骨格、筋、神経、呼吸、循環等を含む物質的・構造的・機能的現象として考えるための概念的標識として用いることは可能である。
 この場合、それは辞書的定義ではなく、身体論上の操作的な用法として明示されなければならない。


5.「体」と「身」

 日本語の「体」と「身」についても、単純な一対一対応として扱うことは避ける必要がある。
 とりわけ「身」という語は興味深い。「身につける」「身を置く」「身を守る」「身を以てて知る」「身のこなし」
 これらにおける「身」は、単なる解剖学的肉体を意味していない。身体、自分自身、立場、境遇、行為主体等が重なった広い意味領域をもつ。
 ここには、身体を「所有する物体」としてだけではなく、自己そのものを含む存在として捉える日本語的身体観を考察する手掛かりがある。


6.「身のこなし」「振る舞い」「佇まい」

 日本語には、「身体の使い方」とは異なる身体表現が存在する。
 「身のこなし」は、一つの関節や筋の操作ではなく、その人が身体全体としてどのように動くかを表現する。
 「振る舞い」は、単なる身体動作だけでなく、状況や他者との関係の中で現れる行為を含む。
 さらに「佇まい」は、明確な動作を行っていない時でさえ、その人の身体状態が外部へ現れることを示す。これらの言葉に共通するのは、身体を部分的な操作の集合としてではなく、人間全体の成立様式として捉えやすいことである。
 「身体の在り方」という概念を考える上で、これらの日本語は重要な示唆を与える。


Ⅲ 在り方とは何か

7.在り方は静止でも姿勢でもない

 「在り方」という語から、静止した身体状態を想像するかもしれない。
 しかし、生きた身体は完全には静止していない。
 呼吸する。循環する。姿勢を調整する。感覚情報を受け取る。筋活動を変化させる。重力へ応答する。
 したがって、身体の在り方とは固定された「形」ではない。
 また、姿勢とも同義ではない。同じ外形的姿勢を取っている二人でも、筋活動、支持状態、呼吸、外力への応答性、次の運動への移行可能性等は異なり得る。
 身体の在り方とは、その瞬間に身体がどのような関係状態として成立しているかを表す動的概念である。


8.見える身体/見えない身体

 人間が肉眼で直接観察できるのは、主として身体表面である。皮膚、外形、姿勢、動作等は比較的観察しやすい。
 しかし、その内部には骨、筋、腱、靱帯、神経、血管、臓器等が存在し、さらに筋活動、循環、身体感覚等の現象が生じている。
 勿論、現代医学・身体科学では、画像診断や各種測定によって、その一部を可視化・数値化することができる。
 したがって、ここでいう「見えない身体」とは原理的に観察不能という意味ではない。
 重要なのは、外から同じように見える身体でも、内部で同じ現象が生じているとは限らないということである。


9.同じ動作でも同じ身体運動ではない

 例えば二人の人物に、「腕を上げてください」という同じ課題を与える。外見上、どちらも腕を上げることができる。
 しかし、その運動を成立させている上腕骨、肩甲骨、胸郭、脊柱等の関係や筋活動、呼吸、支持状態まで完全に同一であるとは限らない。
 つまり、同じ課題 ≠ 同じ身体運動である。
 外形的な動作だけでは、その動作を成立させている身体内部の運動構造を完全には説明できない。
 ここに、「使い方」だけではなく「在り方」を見る必要が生じる。


10.在り方は運動の初期条件である

 身体の在り方は、次に生じる運動の初期条件として考えることができる。
 動作開始時に、どこへ荷重しているのか。身体各部がどのような位置関係にあるのか。どの程度の筋活動が存在するのか。呼吸はどうなっているのか。どのような運動可能性をもっているのか。
 これらが異なれば、同じ言語指示を与えても、結果として生じる身体運動は異なり得る。
 「どう動くか」を考えるためには、その直前に存在する「どう在るか」を無視することはできない。


Ⅳ 身体・環境・行為

11.身体と環境

 身体運動は、身体内部だけで完結しない。
 人間は重力の中に存在し、地面から支持され、物体へ触れ、外力を受けながら運動している。
 歩行では身体が地面へ力を及ぼし、地面から反力を受ける。
 したがって身体と環境の関係は一方向ではない。
 身体 ⇄ 環境という相互関係の中で運動が成立する。
 身体の在り方を考える際には、身体内部の状態だけでなく、その身体が何との関係の中に置かれているかを見る必要がある。


12.動作と行為

 身体の「動作」と人間の「行為」は同一ではない。
 例えば肘関節を屈曲することは、身体運動として記述できる。
 しかし、コップを口へ運ぶ、物を持ち上げる、人を招くといった行為は、単なる肘関節屈曲ではない。複数の身体運動が、環境および目的との関係の中で組織化されている。
 したがって、身体研究において関節運動を見ることと、人間の行為を見ることは区別されなければならない。


13.目的によって身体は組織化される

 同じ「腕を上げる」という運動でも、棚の物を取る、ボールを投げる、相手を打つ、手を挙げて合図する。
 では、行為としての意味が異なる。
 人間はこれらの行為を行う際、身体各部を一つずつ意識的に計算しているわけではない。
 ある目的へ向かって、複数の身体運動が一つの行為として組織化される。
 したがって身体運動を理解するためには、身体内部で何が動いたかだけでなく、何のために、その身体運動が生じたのかを見る必要がある。


14.他者との関係によって身体は変わる

 身体の在り方は、物理環境だけでなく他者との関係によっても変化する。
 一人で立つ。人前で立つ。友人と向き合う。競技相手と向き合う。これらの状況では、同じ人物であっても、視線、呼吸、筋緊張、姿勢、距離の取り方等が変化し得る。
 特に武術や対人スポーツでは、相手の存在そのものが運動条件となる。
 したがって、人間の身体は孤立した物体としてではなく、物理的・社会的環境との関係の中で成立する身体として考える必要がある。


Ⅴ 身体指導への展開

15.フォームを変えることと身体を変えること

 スポーツや運動指導では、フォーム修正が行われる。腕の位置、脚の角度、身体の傾き等を変更する。
 しかし、外形を変えることと、その外形を生み出している身体そのものが変わることは同じではない。
 身体側の条件が変化していなければ、別の筋緊張や代償運動によって指定された外形だけを再現する可能性がある。
 したがってフォームを結果として捉え、そのフォームが自然に生じ得る身体条件は何かと問う視点が必要になる。


16.「できない」を意識不足で説明しない

 ある動作ができない時、「もっと意識して下さい」という指導が行われることがある。
 しかし、できない理由が意識不足とは限らない。
 本人は方法を理解していても、その運動を身体として経験していない、あるいは現在利用可能な運動選択肢の中に存在しない場合がある。
 知識として「分かる」ことと、身体として「できる」ことは同じではない。
 したがって、意識によって身体を強制的に修正する前に、なぜ現在の身体は、その運動を選択しているのかを検討する必要がある。


17.動作ではなく、動作が生まれる条件を見る

 身体指導では、「こう動いて下さい」と動作そのものを教える。
 勿論、それが必要な場合もある。
 しかし、身体側にその動作を成立させる条件がなければ、同じ指示を繰り返しても根本的な変化が生じない可能性がある。
 そこで、身体構造はどうなっているのか。支持条件はどうなっているのか。身体各部はどのような関係にあるのか。どのような運動可能性が存在するのかを見る。
 これは、動作の修正から、動作の成立条件の研究へという視点の転換である。


18.身体開發とは技法を増やすことではない

 身体開發とは、多数の身体技法を所有することと同義ではない。
 歩き方。呼吸法。姿勢法。脱力法。武術技法。これらを学習することは、新たな身体経験を得る手段となり得る。
 しかし重要なのは、技法の数ではなく、その技法によって身体の何が変わったのかである。
 身体構造の認識が変化したのか。運動可能性が増えたのか。身体各部の関係が変化したのか。身体の在り方そのものが変化したのか。
 技法は目的ではなく、身体そのものを開發するための手段として位置づけられる。
 したがって身体開發とは、「できる技法」を増やすことではなく、身体が取り得る在り方と運動の可能性を拡張していく過程である。


Ⅵ 身躰構造學としての整理

19.構造・在り方・動作・行為

 ここまでの議論を、身躰構造學の立場から整理すると、構造 ⇄ 在り方 ⇄ 動作 ⇄ 行為という関係を考えることができる。
 「構造」とは、骨格を中心として身体運動を可能にする物理的条件である。
 「在り方」とは、その構造をもつ身体が、その瞬間にどのような状態として成立しているかを示す。
 「動作」とは、その身体から実際に生じる運動である。
 そして「行為」とは、その動作が目的、環境、対象、他者との関係の中で意味をもったものである。
 ただし、これは一方向の階層ではない。
 行為を経験することによって身体は学習し、動作が変化し、身体の在り方も変化する。
 したがって、身体は固定された構造物ではなく、構造を基盤としながら、経験によって絶えず組み替えられる動的存在として捉える必要がある。


20.在り方は固定状態ではなく変化可能性である

 では、「良い身体の在り方」とは何か。一つの理想姿勢を維持することではない。身体は状況によって求められる状態を変える。
 立つ。歩く。走る。休む。眠る。戦う。演奏する。それぞれに必要な身体状態は異なる。
 したがって身体の在り方の質は、特定の状態に固定されていることではなく、必要に応じて異なる状態へ移行できることにも求められる。
 力を発揮できる。そして、力を解除できる。静止できる。そして、直ちに動き出せる。環境が変われば、それに応じて身体も変化できる。この変化可能性もまた、身体の在り方を考える上で重要な要素となる。


21.「在り方」を万能語にしない

 一方、「身体の在り方」という概念を、あらゆる身体現象を説明する万能語にしてはならない。
 「在り方が悪いからできない」「在り方が変わったから良くなった」という説明だけでは、何も具体的に説明していない。
 何が変化したのか。骨格運動なのか。支持条件なのか。筋活動なのか。呼吸なのか。身体感覚なのか。環境との関係なのか。それを具体的に示す必要がある。
 したがって、「身体の在り方」は答えではない。問いである。
 ある動作が生じた時、「この動作が生じる以前に、この身体はどのような状態にあったのか」と問う。そのための概念として位置づけることが重要である。


22.「身体の使い方」から「身体の在り方」へ

 「身体の使い方」という概念は、身体技法を伝達する上で有用である。
 本稿は、この言葉を否定するものではない。
 しかし、使い方だけでは捉えきれない身体が存在する。
 方法を教える以前に身体がある。動作が始まる以前に身体がある。技術を身につける以前に身体がある。
 そして、その身体は重力、地面、環境、目的、他者との関係の中ですでに一定の状態として存在している。
 したがって、「身体をどう使うか」という問いに、「その身体は、いま、どう在るのか」という問いを加える必要がある。
 これは「使い方」を捨てることではない。使い方が成立する、さらに手前の身体へ視点を戻すことである。


結論
―「どう動くか」の前に、「どう在るか」

 身体運動について考える時、我々は「どう動くか」を問う。
 どの筋を使うのか。どの関節を動かすのか。どのようなフォームなのか。どのような技術なのか。これらはいずれも重要である。
 しかし、そのすべてに先立って、その動作を行う身体が存在している。
 身体は構造をもち、重力を受け、地面に支持され、呼吸し、環境を知覚し、他者と関係しながら存在している。
 そして、その身体の在り方から動作が生まれる。
 動作は目的へ向かうことで行為となり、その行為の経験によって身体は再び変化する。
 したがって、身体の在り方 ⇄ 身体運動は、一方向ではなく循環的な関係にある。
 本稿が提案する「身体の在り方」とは、身体を固定された理想形へ導くための概念ではない。
 身体運動を見た時、その動作だけを見るのではなく、その動作を生み出している身体側の条件まで遡って考えるための概念である。
 「どう動けばいいのか」。その問いだけではなく、「この身体は、いま、どう在るのか」。身体の使い方から、身体の在り方へ。
 この視点の転換によって、身体研究は「動作の方法」だけでなく、動作そのものを生み出す身体の成立条件へと対象を広げることができる。
 そして、そこから始まる探究こそが、身躰構造學における身躰開發の一つの基礎となるのである。

身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi


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