「体幹」という語は何を指しているのか
―解剖学的構造と運動指導用語の乖離

要旨

 「体幹を鍛える」「体幹を安定させる」「体幹が強い」「体幹を使う」といった表現は、スポーツ、フィットネス、リハビリテーション、健康運動などの領域で広く使用されている。
 しかし、「体幹」という語が具体的にどの身体領域・解剖学的構造・運動機能を指しているのかを問うと、その定義は必ずしも一様ではない。
 一般には、体幹は四肢や頭部を除いた胴体部分を意味する語として用いられる。一方、運動指導の現場では、「体幹」が腹筋群を中心とした領域を意味する場合もあれば、脊柱・骨盤周囲を含む領域、いわゆる「コア(core)」とほぼ同義に用いられる場合、さらには全身運動における安定性や身体能力そのものを意味する場合まで存在する。
 その結果、「体幹」という一語の内部に、身体領域、筋群、運動機能、安定性、身体能力、トレーニング方法など異なる概念が混在している。
 本稿では、「体幹」という語を自明な身体単位として扱うのではなく、①解剖学的領域としての体幹、②運動学的・機能的概念としての体幹、③トレーニング用語としての体幹、④「体幹が強い」という評価表現、を区別して検討する。
 その上で、「体幹」という包括語によって身体構造の具体性が失われる可能性を指摘し、身体運動を理解する際には、「体幹」という語を使用する前に、実際に何を指しているのかを明示する必要性を論じる。

キーワード: 体幹、コア、身体構造、脊柱、胸郭、骨盤、運動制御、安定性、運動指導


1.「体幹を使って下さい」という言葉

 スポーツや運動指導の現場では、次のような言葉を頻繁に耳にする。
 「体幹を使って下さい」「体幹が弱いですね」「体幹を鍛えましょう」「体幹を安定させて下さい」「この選手は体幹が強い」
 これらの表現は、あまりにも一般化しているため、意味が明確であるように感じられる。
 しかし、ここで単純な問いを立てる。体幹とは、どこなのか。腹部なのか。腹筋群なのか。胸部なのか。腰部なのか。骨盤なのか。脊柱なのか。胸郭なのか。それらすべてなのか。更に、「体幹を使う」とは、具体的に何をすることなのか。
 この問いに対して説明ができないのであれば、「体幹」という言葉は身体運動を説明しているのではなく、むしろ曖昧にしている可能性がある。


2.「体幹」は身体部位なのか

 一般的な解剖学的区分では、人体は頭部、頸部、体幹、上肢、下肢などの領域に分けて記述される。
 この意味における体幹は、概ねtrunk / torsoに対応する身体領域である。
 したがって、解剖学的な領域名として「体幹」を使用すること自体に問題があるわけではない。
 問題は、この領域名が運動指導の場へ移されたときである。
 解剖学的な体幹には、多数の構造が含まれている。脊柱。胸郭。肋骨。胸骨。骨盤。腹壁。背部筋群。呼吸筋。内臓。その他の軟部組織。
 つまり、「体幹」は一つの器官でも、一つの筋肉でも、一つの関節でもない。身体の一定領域を包括的に指す名称である。


3.「体幹筋」という一つの筋肉は存在しない

 「体幹を鍛える」という表現から、恰も「体幹」という一つの筋肉が存在するかのような印象を受ける場合がある。
 しかし当然ながら、「体幹筋」という単一の筋が存在するわけではない。
 腹直筋。外腹斜筋。内腹斜筋。腹横筋。脊柱起立筋群。多裂筋。腰方形筋。横隔膜。骨盤底筋群。その他、多数の筋が体幹領域の運動や支持に関与する。
 しかも、それらは同じ作用をもつわけではない。
 したがって、「体幹を鍛える」という表現だけでは、何を鍛えるのかが明確ではない。筋力なのか。筋持久力なのか。運動制御なのか。姿勢保持能力なのか。呼吸との協調なのか。特定の競技動作なのか。「体幹」という語だけでは、その内容を特定できないのである。


4.「体幹」と「腹筋」は同じではない

 実際の運動指導では、「体幹」が腹部とほぼ同義に使用されることがある。
 プランクをする。腹筋運動をする。腹横筋を収縮させる。すると、「体幹を鍛えた」と表現される。
 しかし、解剖学的領域としての体幹は腹部だけではない。胸郭も存在する。脊柱も存在する。背部も存在する。骨盤との関係もある。
 したがって、腹筋トレーニング=体幹トレーニングと無条件に同一視することはできない。
 腹筋群を鍛えることは、体幹領域に存在する一部の筋を対象としたトレーニングである。それ以上でも、それ以下でもない。


5.「体幹」と「コア」は同じなのか

 更に混乱を生じさせるのが、「コア(core)」という語である。
 フィットネスやスポーツの領域では、体幹=コアとして使用されることが少なくない。
 しかし、「core」という語そのものも、研究領域や指導体系によって定義が異なる。腹部を中心とした領域を指す場合。腰椎・骨盤周囲の安定化機構を指す場合。胸郭を含む場合。股関節周囲まで含める場合。更に機能的には、四肢運動の基盤となる身体中央部という意味で使用される場合もある。
 したがって、「体幹」を「コア」と言い換えても、曖昧さが解消されるとは限らない。日本語を英語へ置き換えただけで、定義問題そのものは残る。


6.「体幹が強い」とは何が強いのか

 スポーツ選手について、「この選手は体幹が強い」と評価することがある。しかし、この「強い」は何を意味しているのだろうか。
 腹筋群の最大筋力が高いのか。等尺性収縮を長時間維持できるのか。外力を受けても姿勢を維持できるのか。高速運動中に身体を制御できるのか。四肢から生じた力を伝達できるのか。接触を受けても倒れにくいのか。単に見た目が安定しているのか。これらは同じ能力ではない。
 したがって、「体幹が強い」という表現は、評価対象を明示しない限り、科学的には極めて曖昧である。


7.「強い」と「固い」は同じではない

 「体幹が強い」という言葉から、身体中央部が動かず、外力に負けない状態を想像することがある。
 しかし、動かないこと=強いこととは限らない。身体運動では、安定性と可動性の両方が必要になる。
 走る。投げる。蹴る。打つ。泳ぐ。歩く。これらの運動において体幹領域は完全に固定されているわけではない。
 脊柱は動く。胸郭は動く。骨盤は動く。
それらの相対的位置関係も変化する。
 したがって、体幹を固定できる能力と、体幹を適切に動かせる能力は別である。
 「強さ」を固定性だけで評価すれば、運動に必要な可動性を見失う可能性がある。


8.「体幹を安定させる」とは何を意味するのか

 「体幹を安定させる」という表現も広く使用される。しかし、安定とは必ずしも「動かないこと」を意味しない。
 立位でも身体は微細に揺れている。歩行では身体重心が移動する。走行ではさらに大きな加速・減速が生じる。スポーツでは外力や予測不能な環境変化にも対応しなければならない。
 つまり、生体における安定とは、固定された状態というより、変化に対応しながら機能を維持できる状態として捉える必要がある。
 したがって、安定性とは、運動を消す能力ではなく、運動の中で破綻しない能力であるとも言える。


9.「固定」と「安定」を区別する

 この点から、固定(fixation)と、安定(stability)を区別する必要が生じる。
 身体を強く固めれば、一時的に動きを減少させることはできる。しかし、それによって必ずしも運動遂行能力が高まるとは限らない。運動課題が変化した時に、身体も変化する必要があるからである。
 例えば、走行中の体幹領域に求められる状態と、重量物を保持するときに求められる状態は同一ではない。
 したがって、体幹安定=体幹固定という理解には限界がある。


10.「体幹を固める」という指導

 運動指導では、「お腹を固めて」「体幹を締めて」「ブレないように」と指示されることがある。特定の課題では、このような指示が有効な場合もある。
 しかし、それをあらゆる運動へ普遍化すると問題が生じる。
 身体は常に同じ剛性を必要としているわけではない。運動課題によって必要な剛性は変化する。更に運動の一つの局面の中でも、必要な状態は時間的に変化する。
 したがって重要なのは、固められることではなく、必要に応じて身体の状態を変化させられることである。


11.「体幹トレーニング」は何をトレーニングしているのか

 「体幹トレーニング」というカテゴリーには、非常に多様な運動が含まれている。
 プランク。サイドプランク。腹筋運動。バランス運動。不安定面上での運動。回旋運動。抗回旋運動。呼吸を利用した運動。これらをすべて、体幹トレーニングという一つの名称で括ることができる。
 しかし、生理学的・運動学的には同じ刺激ではない。使用される筋も異なる。関節運動も負荷も収縮様式も運動課題も異なる。
 したがって、「体幹トレーニングをした」という記述だけでは、何をしたのか十分に分からないのである。


12.言葉が広すぎると、身体が見えなくなる

 「体幹」という言葉は便利である。腹部、背部、胸郭、脊柱、骨盤周囲などを一括して表現できる。
 しかし、便利な言葉には危険もある。一つの言葉で多くのものをまとめるほど、個々の構造は見えにくくなる。
 例えば、「体幹を回旋する」と言う。しかし、実際には何が起きているのか。胸椎なのか。腰椎なのか。胸郭なのか。骨盤なのか。股関節との関係なのか。それらの複合なのか。「体幹」という言葉を使用した瞬間に、これらの区別が消えてしまう可能性がある。
 つまり、包括語は身体を分かりやすくする一方で、身体構造を見えなくするのである。


13.「体幹」という仮想的な一個体

 言語上、「体幹」は一つの名詞である。そのため、「体幹が動く」「体幹を鍛える」「体幹を使う」という文章を作ると、恰も「体幹」という一つの構造体が存在し、それが一体として動いているような認識が生じやすい。
 しかし実際の身体には、脊柱、肋骨、胸骨、骨盤、頭蓋骨がある。多数の関節と筋がある。それらが異なる方向・速度・時機で運動する。
 したがって、「体幹」という一語によって、複数構造から成る身体領域を一個の運動主体として実体化していないかという問いが必要になる。


14.「体幹を動かす」とは、誰を動かすのか

 例えば、「体幹を右へ回して下さい」という指示を考える。身体は右へ向く。しかし、その内部では何が起きているのか。胸郭と骨盤が同じ角度で回転しているのか。胸郭が骨盤に対して回旋しているのか。骨盤が大腿骨に対して回旋しているのか。脊柱のどの領域で、どの程度の運動が起きているのか。これらはすべて異なる。
 したがって、「体幹を回す」という言葉は、運動結果を大まかに表現することはできても、身体構造内部で生じている運動を十分には記述できない。


15.「体幹主導」という言葉の曖昧性

 更に、「手足ではなく体幹から動く」「体幹主導で動く」という表現も使用される。しかし、ここでも同じ問題が生じる。
 体幹の何が主導するのか。脊柱なのか。胸郭なのか。骨盤、頭蓋骨、腹筋群、身体重心なのか。或いは単に「腕だけで動かない」という比喩なのか。定義されなければ、「体幹主導」という言葉は、身体運動を説明しているようで、実際には具体的な構造を示していない。


16.「手足」と「体幹」は本当に別々なのか

 人体を、体幹+四肢として分類することは、解剖学的記述上は有用である。しかし運動において、その境界を絶対化することには注意が必要である。
 上肢は肩甲帯を介して体幹領域と関係する。下肢は骨盤を介して体幹領域と関係する。歩行では上肢と歩行では上肢と下肢が同時に運動し、その間に位置する胸郭・脊柱・骨盤も運動する。
 投球でも同様である。下肢で生じた運動と上肢の運動を、「脚」「体幹」「腕」という三つの独立した部品の運動として完全に切り離すことはできない。
 したがって、体幹と四肢を解剖学的に区分することと、体幹と四肢が運動において独立していると考えることは別問題である。
 身体を領域として分類することはできる。しかし、運動までその分類通りに分離されているとは限らないのである。


17.「体幹から力を伝える」という表現

 スポーツでは、「下半身の力を体幹を通して上半身へ伝える」という説明も頻繁に使用される。これは全身運動を理解するための比喩としては分かりやすい。
 しかし、ここでも「力を伝える」という言葉の意味を明確にする必要がある。力学的な力、運動量、関節トルク、身体各部の角速度、筋活動の連鎖なのか。或いは、それらを総合した感覚的表現なのか。身体の内部に「力」という物体が存在し、脚 → 体幹 → 腕という経路を通って移動しているわけではない。
 したがって、「体幹が力を伝える」という表現は、何がどのような力学的・運動学的関係によって伝達されているのかを明示して初めて、具体的な説明となるのである。


18.「体幹がブレる」とは何がブレているのか

 「体幹がブレている」という言葉も、スポーツ指導ではよく使用される。しかし、この「ブレ」もまた曖昧である。身体重心が移動しているのか。骨盤が傾いているのか。胸郭が側方へ移動しているのか。脊柱が側屈しているのか。頭部が動いているのか。それとも、観察者が期待した運動軌道から身体全体が外れているのか。これらは同じ現象ではない。
 更に重要なのは、「動いていること」と「ブレていること」は同じではないということである。運動課題によっては、身体中央部が大きく移動すること自体が必要になる。
 したがって「ブレ」という言葉を使用する場合にも、何が、何に対して、どの方向へ、どの程度変位したことを問題としているのかを明示する必要がある。


19.動かない体幹は、本当に優秀なのか

 「体幹が強い選手」と聞くと、身体中央部がほとんど動かない選手を想像することがある。しかし、競技運動を観察すれば、優れた選手ほど身体中央部が大きく運動する場面も存在する。
 走る。跳ぶ。投げる。打つ。蹴る。泳ぐ。身体中央部は、これらの運動において固定された土台としてのみ存在しているわけではない。
 むしろ、運動課題によっては積極的に形を変え、回旋し、屈曲し、伸展し、側屈し、移動する。
 したがって、「体幹が動かない」ことを無条件に高い身体能力とみなすことはできない。
 重要なのは、動かないことではなく、必要な時に必要な運動が生じることである。


20.「安定性」と「可動性」は本当に反対なのか

 運動指導では、安定性(stability)と、可動性(mobility)が対立する概念として説明されることがある。しかし、生体において両者は必ずしも単純な反対概念ではない。
 必要な可動性があるからこそ、外力や環境変化へ適応できる場合がある。逆に、適切な制御があるからこそ、大きな可動域を安全かつ有効に利用できる場合もある。
 つまり、安定しているから動かないのではなく、適切に動けることが、結果として安定性を生み出す場合もある。
 したがって、安定とは可動性の排除ではなく、可動性を含んだ制御状態として考える必要がある。


21.「体幹を鍛えれば競技力が上がる」という論理

 体幹トレーニングについては、「体幹を鍛えるとスポーツパフォーマンスが向上する」という説明がなされることがある。しかし、この主張を検討するためには、少なくとも二つの問いを分けなければならない。
 第一に、そのトレーニングによって何が変化したのか。第二に、その変化が競技動作へどの程度転移したのかである。
 例えばプランク保持時間が延びたとする。これは、その課題に対する能力が向上したことを示す。しかし、それだけで、走速度が向上した。投球速度が向上した。競技中の方向転換能力が向上した。接触時の身体制御が向上したと結論づけることはできない。
 トレーニング課題の向上と、競技能力の向上は同一ではない。ここでも「体幹」という包括語が、異なる能力の間を安易に結びつける危険性がある。


22.プランクが強ければ「体幹が強い」のか

 例えば、一人の選手が長時間プランクを維持できるとする。その選手を、「体幹が強い」と評価できるだろうか。少なくとも、プランクという特定課題を遂行する能力が高いとは言える。
 しかし、その能力から直ちに、高速走行中の身体制御、投球中の回旋運動、格闘技における外力への対応、水泳中の身体制御といった異なる運動能力まで推定することはできない。
 したがって、測定した課題の能力と、「体幹」という一般化された能力を混同してはならない。
 「体幹」という語が広すぎるため、一つのテスト結果が身体中央部全体の能力を代表しているかのような錯覚が生じるのである。


23.「体幹」という語は、構造なのか機能なのか

 ここまでの混乱を整理すると、「体幹」という語には少なくとも異なる階層が混在していることが分かる。
 一つは、解剖学的領域としての体幹。もう一つは、運動機能として語られる体幹。更に、トレーニング対象としての体幹。そして、身体能力の評価語としての体幹である。これらは同じではない。
 身体領域を示す名称が、そのまま機能名となり、能力名となり、トレーニングカテゴリーとなっている。ここに、「体幹」という語の大きな曖昧性がある。


24.名詞が「能力」に変わるとき

 この問題は言語的にも興味深い。本来、「体幹」は身体領域を指す名詞である。しかし、「体幹が強い」と言った瞬間、その言葉は能力概念へ変化する。「体幹を鍛える」と言えば、トレーニング対象へ変化する。「体幹を使う」と言えば、運動主体へ変化する。「体幹を安定させる」と言えば、制御対象へ変化する。
 つまり同じ「体幹」という語が、文脈によって、場所にも、構造にも、機能にも、能力にも、運動主体にもなる。
 この言語的多義性が、運動指導上の概念的混乱を生じさせている可能性がある。


25.言葉を知ることで、身体を知った気になる

 「体幹」という言葉を知っている。「コア」という言葉を知っている。「インナーマッスル」という言葉を知っている。すると、身体について理解したような感覚が生じることがある。
 しかし、名称を知ることと、構造を知ることは違う。更に、構造を知ることと、運動を知ることも違う。「体幹」という名称を身体中央部へ貼り付けても、その内部で何がどのように動いているのかを理解したことにはならない。
 したがって身体研究では、言葉によって身体を見るのではなく、身体を見た上で必要な言葉を使うという順序が重要になる。


26.「体幹」という語を捨てる必要はない

 ここまで「体幹」という語の曖昧性を論じてきた。
 しかし、本稿は、「体幹という言葉を使ってはいけない」と主張するものではない。包括語には包括語としての有用性がある。身体の中央領域を大まかに示したい場合、「体幹」は便利な言葉である。
 問題は、便利な言葉を、精密な説明が必要な場面でもそのまま使用することである。
 日常会話では、「体幹を鍛える」で十分な場合もある。しかし研究や専門的指導では、何を対象としているのか。どの構造なのか。どの能力なのか。どの運動なのか。どの評価指標なのかを具体化する必要がある。


27.「体幹」を使うなら、その都度定義する

 したがって、「体幹」という語を使用する際には、その文脈における意味を明示することが望ましい。
 例えば、本稿における体幹とは、四肢を除いた身体中央部領域を指す。或いは、本研究における体幹安定性とは、特定の外乱条件下における頭蓋骨、胸郭、骨盤の相対的位置制御能力を指すというように定義する。
 そうすれば、「体幹」という語そのものを排除する必要はない。問題なのは言葉ではなく、定義されていない言葉によって議論を進めることなのである。


28.「体幹」から具体的身体構造へ戻る

 運動指導においても同様である。「体幹を使って」で終わらせない。実際には何が起きてほしいのか。胸郭が動くのか。骨盤、頭蓋骨が動くのか。脊柱の運動なのか。腹壁の筋活動、呼吸との協調、外力に対する身体制御なのか。これらを明確にする。
 すると、「体幹」という大きな箱の中に隠れていた身体構造が再び見えてくる。ここに、包括語を解体する意味がある。


29.身体は「体幹」と「手足」に分かれて動いているわけではない

 身体を理解するためには、分類が必要である。しかし、分類は現実そのものではない。
 解剖学的には、頭部。頸部。体幹。上肢。下肢。と分類できる。しかし、生きた身体が運動する時、この分類線に沿って運動が切断されるわけではない。
 歩行では上肢と下肢が同時に運動する。胸郭も骨盤も脊柱も頭部も運動する。それらが一つの身体運動として成立している。
 したがって、分類上の境界を、運動上の境界と混同してはならないのである。


30.「体幹中心主義」という新たな部分論

 かつて身体運動が「手足の筋力」中心に説明されていたことへの反省から、体幹の重要性が強調されるようになった。これは身体をより全体的に捉える契機となった面もある。
 しかし、手足ではなく体幹が大事だという説明が極端になれば、別の問題が生じる。
 それは、四肢中心主義を、体幹中心主義へ置き換えただけになる可能性である。
 手足だけを見ることが部分論であるならば、体幹だけを見ることもまた部分論である。
 身体は、四肢か体幹かという二者択一で成立しているわけではない。
 したがって必要なのは、中心となる部位を別の部位へ置き換えることではなく、身体各部がどのような関係の中で一つの運動を成立させているのかを見ることである。


31.「中心」を設定すると、周辺が生まれる

 「体幹」という言葉には、身体の「幹」、即ち中心部分という意味が含まれている。英語の「core」も同様に、中心・核という意味をもつ。しかし身体に一つの中心を設定すると、それ以外の部位は必然的に「周辺」として位置づけられる。
 すると、中心が主で、末端が従であるという階層的な身体観が生じやすい。
 しかし、身体運動によっては手指の微細な操作が決定的に重要な場合もある。足部と地面との関係が運動全体へ大きく影響する場合もある。視線や頭部運動が運動制御に重要な場合もある。
 したがって、身体中央部が常に運動の唯一の中心であるという前提そのものも検討する必要がある。


32.「中心が動かし、末端が従う」という図式を疑う

 「体幹主導」という言葉には、身体中央部を運動の中心とし、そこから四肢末端へ運動が伝達されるという、一方向的な身体観が含まれる場合がある。すなわち、「中心が動かし、末端が従う」という図式である。
 しかし、身体構造を実際の運動関係から捉えるならば、この「中心―末端」という区分そのものを再検討する必要がある。
 足部が地面へ接触すれば、その接触条件は足部だけに留まらず、下肢を介して身体各部との関係を変化させる。手で物体に触れれば、その接触によって生じる力学的条件もまた、上肢から身体各部へと波及する。
 ここから単純に、「中心→末端」だけではなく「末端→中心」も存在すると結論づけるだけでは十分ではない。
 なぜなら、それでは依然として、身体のどこかに「中心」があり、それ以外を「末端」とする二分法そのものは維持されているからである。
 身躰構造學の立場から重要なのは、中心から末端へ動きが伝わるのでも、末端から中心へ動きが伝わるのでもなく、そもそも運動する身体に固定的な中心と末端を設定しないことである。
 身体を構成する骨、関節、筋、その他の組織は、それぞれが他の構造との関係の中に存在する。一部に生じた運動は他部との関係を変え、その変化はさらに別の部位との関係へと及ぶ。そこでは、一方が常に「動かす側」で、他方が常に「動かされる側」であるとは限らない。
 したがって身体運動は、中心 → 末端でも、末端 → 中心でもない。
 むしろ、身体を構成する諸部位が相互に関係し、その関係そのものを変化させながら運動が成立するものとして捉える必要がある。
 この観点に立てば、「体幹主導」という表現の問題は、単に末端からの入力を軽視していることにあるのではない。
 より根本的には、身体をあらかじめ「中心」と「末端」に分け、その一方を運動の主、他方を従とする身体観そのものにある。
 身体に、中心も末端もない。あるのは、身体を構成する諸構造と、それらのあいだに絶えず生じ続ける関係と互動である。


33.「体幹」という語が隠しているもの

 「体幹」という語を解体すると、これまで一語に隠れていたものが現れる。
 脊柱。胸郭。骨盤。頭蓋骨。腹壁。呼吸。多数の筋。多数の関節。そして、それらと上肢・下肢・頭頸部との関係。
 つまり、「体幹」を詳しく見ようとすればするほど、体幹という一個のものは見えなくなり、具体的な身体構造とその関係が見えてくる。これは逆説的である。
 「体幹」を知ろうとした結果、「体幹」という包括語から離れなければならなくなるのである。


結語

 本稿で問うてきたのは、「体幹は重要か否か」ではない。また、体幹トレーニングの有効性そのものを否定することでもない。
 問題としたのは、「体幹」という語によって、私たちは身体の何を見ているのかということである。
 「体幹」は、身体の一定領域を便宜的に示す語としては有用である。しかし、それを一つの独立した構造、一つの機能単位、あるいは身体運動を主導する「中心」として扱い始めたとき、本来そこに存在する多様な構造と関係が見えにくくなる。
 脊柱は脊柱であり、胸郭は胸郭であり、骨盤は骨盤である。それぞれは固有の構造をもち、それぞれに運動しながら、上肢・下肢・頭頸部を含む他の身体構造と絶えず関係している。
 そこに、あらかじめ固定された「中心」と「末端」があるわけではない。
 身体運動とは、一つの中心が他を従えて成立するものではなく、複数の身体構造が互いの関係を変化させながら成立する現象として捉えることができる。したがって、「体幹」という語をより深く理解するために必要なのは、その語の意味をさらに拡張することではない。むしろ、一度その包括語を解き、そこに隠れていた具体的な身体構造へ立ち返ることである。「体幹」を見るのではなく、身体を構成する一つひとつの構造と、その関係を見る。
 その時初めて、「体幹」という一語によって覆われていた身体そのものが、再び見えてくるのである。

 

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