身体実践における現在進行形の知識生成と公開研究


要旨

身体技法の教授は、一般に、すでに獲得された知識や技術を教師が学習者へ伝達する過程として理解される。そこでは、教師が知識を保持する側、学習者がそれを受け取る側として位置づけられ、「教師―内容―学習者」という一方向的な伝達構造が成立しやすい。

しかし、身体実践、とりわけ高度に身体感覚・運動構造・動的関係を扱う領域において、教授行為は必ずしも既知の内容の伝達だけによって成立するものではない。

実践者自身が身体を動かし、その瞬間に身体内部で生起している現象を観察し、それを分析し、言語化し、他者と共有する。その言葉を受けた参加者が実践し、そこから返された反応によって実践者自身が再び身体を観察する。この循環において、知識は教授以前に完成しているのではなく、実践の只中で現在進行形に生成され続ける。

本稿では、このような身体実践の場を単なる「教授」ではなく、共同実践であると同時に公開研究でもある場として捉える。そして、「教える者/教えられる者」という二分法から、「先に実践している者/共に実践する者」という関係への転換について考察する。

キーワード: 身体知、身体実践、教授、実践知、言語化、共同実践、公開研究、現在進行形、身体教育


1.身体技法を「教える」とは何か

 一般に「教える」という行為には、ある前提が存在する。
 それは、教師が、すでに知っている。という前提である。教師は一定の知識・技術をあらかじめ獲得しており、それを整理し、学習者が理解できる形式へ変換して提示する。
 その基本構造は、教師 → 内容 → 学習者と表すことができる。
 例えば四股という身体技法を教授する場合、教師はあらかじめ四股の方法を知っている。
 どのように立つのか。どちらの脚をどのように動かすのか。どのような順序で身体を操作するのか。それらを整理したうえで、「ここをこのように動かして下さい」「次にこの動作を行って下さい」と説明する。
 この形式において重要なのは、教授される内容そのものは、教授が開始される以前からすでに成立しているということである。
 教師自身が、その瞬間に対象を研究している必要はない。前日に用意した説明を、翌日に同じように提示しても授業は成立する。これは知識伝達として何ら不自然なことではない。
 しかし、身体実践の教授には、それだけでは捉えられない別の形式が存在する。


2.「知っていることを話す」と「いま起きていることを話す」

 ここで、二つの言語化を区別する必要がある。
 一つは、既に知っていることを言語化すること。もう一つは、いま身体に起きていることを言語化することである。両者は似ているようで、根本的に異なる。
 前者では、言葉の起点は記憶された知識である。後者では、言葉の起点は現在進行中の身体現象である。
 例えば実践者が四股を行う。その実践者は、四股の術理を既に知っているかもしれない。
 しかし、その既知の術理を頭の中から取り出して説明するのではない。まず、自ら四股を行う。そして、いま大腿骨はどう動いたのか。寛骨はどう応じたのか。左右の関係はどう変化したのか。なぜ一方の足が地を離れたのか。自分は何を能動的に行い、反対に何を行っていないのか。その瞬間の身体現象そのものを観察する。そして、その観察結果を、その場で言葉へ変換する。
 ここでは言語化とは、完成された知識の再生ではない。身体現象の現在進行形の記述なのである。


3.現在進行形としての身体研究

 この違いは重要である。
 身体技法を「知っている」ということと、身体で「いま起きていること」を観察できることは同一ではない。
 熟練した実践者であっても、昨日と今日で身体状態は完全には同じではない。速度が変われば運動も変わる。支持条件が変われば身体各部の関係も変わる。課題が変われば必要となる運動も変化する。
 身体は、固定された教材ではない。常に現在進行形で変化している対象である。したがって、身体そのものを研究対象とするならば、「以前こう理解した」という知識だけでは十分ではない。いま、この瞬間、この身体に何が起きているのか。それを改めて観察する必要がある。
 この意味において身体研究とは、完成された知識体系の反復ではなく、現在進行形の観察行為なのである。


4.體現から言葉が生まれる

 この実践形式では、順序が重要となる。
 まず言葉があり、その言葉に従って身体を動かすのではない。まず身体が動く。そこに現象が生じる。その現象を観察する。観察されたものを分析する。そして初めて、言葉が生まれる。
 即ち、體現 → 観察 → 発見 → 言語化 → 共有という順序である。この場合、言語は身体へ命令するためだけのものではない。
 むしろ、身体で起きたことを、身体から取り出して共有可能にする媒体となる。
 ここに、身体実践における言語化の一つの重要な意味がある。


5.分析・言語化・體現を分離しない

 通常、身体をめぐる研究や教育では、それぞれの役割が分離されることがある。
 研究者が分析する。著者が文章化する。指導者が教える。実践者が身体で行う。勿論、この分業には大きな利点がある。しかし、身体現象を研究する別の方法として、分析する者と言語化する者と體現する者が同一であるという形式も存在し得る。
 この場合、體現 → 分析 → 言語化は別々の工程ではなく、一つの循環になる。
 さらに他者への傳達を含めれば、體現 → 分析 → 言語化 → 傳達となる。
 そして、ここに参加者からの反応が加わる。すると循環はさらに拡張する。體現 → 分析 → 言語化 → 傳達 → 反応 → 再分析 → 再體現となる。
 ここでは「教えること」と「研究すること」を完全に切り離すことが難しくなる。


6.参加者の「分からない」が研究を進める

 通常の教授モデルでは、学習者が理解できなかった場合、「説明が十分に伝わらなかった」と考えられる。
 しかし、現在進行形の研究として講座を捉えるなら、参加者の「分からない」は別の意味を持つ。
 それは、研究対象について、まだ十分に言語化されていない部分が存在することを示している可能性がある。「その説明では分からない」という反応が返ってくる。すると実践者は、もう一度自ら身体を動かす。先ほどとは異なる観点から観察する。別の構造を見る。新しい言葉を探す。そして再び共有する。
 つまり、参加者の理解不能そのものが、新しい問いを発生させる。これは一方向的な教授では生じにくい構造である。


7.参加者の「できた」もまた情報である

 反対に、「できました」「この感覚が分かりました」「この説明で動きが変わりました」という反応も重要である。
 勿論、それだけで理論の科学的妥当性が証明されるわけではない。
 しかし少なくとも、ある言語表現が、他者の身体行為にどのような変化を生じさせたのかを観察する材料にはなる。
 つまり参加者は、単なる知識の受容者ではない。その反応によって、言語化そのものを再検討させる存在でもある。
 ここで教授の場は、身体と言語との関係を検討する実践的な研究空間としての性格を帯び始める。


8.「やる→見つける→言う→またやる」

 この循環を、より単純な言葉で表現するならば、やる。見つける。言う。みんなでやる。反応が返る。またやる。となる。
 重要なのは、最後が再び「やる」に戻ることである。言葉を作って終わらない。説明して終わらない。理論を完成させて終わらない。その言葉を再び自らの身体へ戻す。本当にそうなっているのか。別の条件でも成立するのか。より精確な表現はないのか。
 こうして、身体 → 言語 → 身体という往還が生じる。身体が言葉を生み、その言葉が再び身体を見るための新しい視点となるのである。


9.講座ではなく「公開研究」

 このような場を、単に「講座」と呼ぶだけでは、その性質を十分に表現できない。勿論、形式上は講座である。
 指導する者がおり、参加者がおり、一定のテーマが設定されている。しかし、その内部で起きていることを見るならば、別の側面が現れる。
 実践者自身が対象を研究している。その研究過程を隠さない。完成した結論だけを提示するのではなく、観察・分析・言語化の過程そのものを他者の前へ開く。
 そして参加者も、その場で同じ身体課題を実践する。この意味において、その場は、公開された身体研究と捉えることができる。即ち、公開研究である。


10.完成品を見せるのではなく、生成過程を開く

 通常の教育では、教師は完成された知識を提示する。しかし公開研究では、必ずしも完成したものだけを提示しない。
 むしろ、知識が生まれる過程そのものを開示する。「私はこれを知っている」ではなく、「いま私はこれを行っている」から始まる。
 そして、「いま、このような現象が起きた」「ここにはこのような構造があるのではないか」「もう一度やってみる」と進んでいく。この時、参加者が目撃しているのは、知識の完成品だけではない。知識が生成されていく過程そのものなのである。


11.「教える者/教えられる者」という二分法

 一般的な教授関係では、教える者|教えられる者という区分が成立する。この区分そのものが悪いわけではない。専門的知識や技量には実際に差が存在する。長年研究してきた者と初めて参加する者を、同一の熟練度として扱う必要もない。
 問題は、知識量の非対称性と、行為主体の非対称性を同一視することである。
 教師の方が多くを知っている。だから教師だけが主体である。学習者は知らない。だから学習者は受動的な受容者である。この二つは論理的には別問題である。


12.「やる者/やる者」という関係

 共同実践では、別の関係が成立する。
 やる者|やる者である。
 勿論、一方は何十年も研究しているかもしれない。他方は今日初めてその運動を行うかもしれない。
 知識量も技量も異なる。しかし、双方とも身体を動かしている。双方とも、自らの身体に生じた現象と向き合っている。
 したがって、経験や技能の差を保持したまま、行為主体としては双方が実践者であるという関係を成立させることができる。


13.「先生と生徒」から「先にやっている者と共にやる者」へ

 この関係をより精確に表現するなら、先生と生徒というより、先にやっている者と、共にやる者である。「先にやっている者」は、蓄積された経験をもつ。より細かく身体を観察できる。より多くの言葉を持っている。しかし、その者もまた現在進行形の実践者である。
 研究を終えた者ではない。完成した者でもない。いまもやっている者である。
 ここに、従来の教授関係とは異なる身体教育の可能性がある。


14.「一緒にやる」は平等化ではない

 ここは重要である。「一緒にやる」という言葉は、ともすれば、教師と参加者の専門性の差を否定することと誤解される可能性がある。
 しかし、そうではない。研究歴の差は存在する。技量差も存在する。身体観察能力にも差がある。その非対称性を無理に消す必要はない。
 重要なのは、専門性の差が存在することと、参加者が受動的存在であることは同義ではないということである。
 参加者もまた自ら身体を動かし、自らの身体に生じた現象を観察する。
 したがって、専門性は非対称であっても、実践主体性は双方に存在する。この区別が重要になる。


15.身体知は「渡す」ことができるのか

 ここから、さらに根本的な問題が生じる。
 そもそも身体知は、教師から学習者へそのまま「渡す」ことができるのだろうか。
 教師が自らの大腿骨を動かす。その感覚を言葉にする。しかし、その感覚そのものを参加者へ直接移植することはできない。参加者は言葉を受け取り、自分自身の身体でやるしかない。
 つまり身体教育において、教師が直接与えられるのは身体知そのものではない。
 言葉。課題。観察点。実演。問い。そうしたものを提示することはできる。しかし最後に身体知を成立させるのは、参加者自身の実践である。
 この意味でも、身体は、本質的には「教えてもらう」だけでは獲得できない。自らやらなければならない。


16.言葉は「答え」ではなく「身体を見るための道具」になる

 この時、指導者の言葉の役割も変わる。
 言葉は、「正解を教えるもの」だけではなく、参加者自身が自らの身体を観察するための道具となる。
 例えば、「足を上げて下さい」という言葉と、「足を上げようとせず、大腿骨と寛骨の関係がどのように変化した結果として足が地面から離れるのかを観察して下さい」という言葉では、参加者に要求している行為が異なる。
 前者では、「足を上げる」という結果が課題として与えられる。後者では、足が上がる以前に身体内部で何が生じているのかという、運動生成過程そのものへ注意が向けられる。
 ここで言葉は、身体へ命令を与えるためのものではなくなる。
 むしろ、それまで見えていなかった身体現象を見るための視点となる。
 言葉によって身体を動かすのではない。言葉によって身体を見る。そして、見えるようになった身体を、自ら動かして確かめる。
 この意味において、身体実践における言語化とは、単なる説明技術ではなく、身体認識の解像度を変化させる方法として位置づけることができる。


17.言語化は「身体から離れること」ではない

 身体技法の世界では、時に、「言葉にすると本質から離れる」「身体は頭で理解するものではない」といった主張がなされることがある。
 確かに、身体経験のすべてを言語へ還元することはできない。身体感覚には、言語化が困難な側面が存在する。
 しかし、すべてを言葉にできないことと、言葉にする必要がないことは同じではない。
 重要なのは、言語を身体経験の代替物にしないことである。
 言葉だけを理解し、身体で行わなければ、身体技法そのものを獲得したことにはならない。
 一方で、身体で起きている現象を精密に観察し、その一部を言語化することによって、それまで無自覚であった身体関係が認識可能になることもある。
 したがって、身体か、言葉かという二者択一ではない。身体から言葉を生み、その言葉を再び身体へ戻す。この往還こそが重要なのである。


18.「現在進行形」で言葉を生むということ

 ここで本稿の中心概念である「現在進行形」へ戻る。
 身体実践における言語化には、少なくとも二つの時間構造が存在する。
 一つは、過去に理解した身体現象を、現在説明すること。もう一つは、現在起きている身体現象を、現在観察し、現在言語化することである。
 後者では、言葉はあらかじめ完全には決まっていない。
 身体を動かす。観察する。そこで初めて気づく。気づいたものを言葉にする。その言葉によって再び身体を見る。すると、さらに別の現象が見えてくる。
 したがって、身体と言葉が同時進行で更新される。これが、現在進行形の身体研究である。


19.知識は講座の前に完成しているとは限らない

 通常の講義では、講義開始時点で内容が完成していることが望ましい。
 しかし、公開研究としての身体実践では、講座開始時点ですべての言葉が完成している必要はない。勿論、基本となる理論や術理は存在する。
 しかし、その理論を実際に身体で行った時、新しい関係が見えることがある。より精確な言葉が見つかることがある。従来使用していた言葉では不十分であることに気づくこともある。
 例えば、身体実践を精密に観察した結果として、従来用いられていた「軸足」という語では実際の運動関係を十分に表現できないと判断されることがある。その場合、新たな身体現象を区別するため、新しい概念が必要になる。
 つまり、言葉は身体に先立って固定されているのではなく、身体研究の進行に伴って更新され得る。
 ここに、現在進行形の研究として身体実践を行う意味がある。


20.「教えながら研究する」のでもない

 ここでさらに精確に区別しておきたい。
 この実践を、「教えながら研究している」と表現することもできる。
 しかし、それでもなお、「教える」が主であり、「研究する」が従であるような印象が残る。
 むしろ実態に近いのは、研究しているところが、そのまま公開されているという構造である。
 身体を動かす。身体を観る。分析する。言葉にする。参加者も行う。反応が返る。再び身体を見る。この循環全体が公開されている。
 したがって、講義の中に研究があるのではない。研究そのものが講義として成立していると捉える方が適切である。


21.公開研究と共同実践

 ただし、「公開研究」と「共同研究」は区別する必要がある。
 参加者全員が同じ研究責任や専門性を担っているわけではない。
 研究主体、研究歴、分析能力、理論構築の責任には差が存在する。
 したがって、安易に「全員が共同研究者である」と表現することは適切ではない。
 しかし、身体実践という行為については、全員が実践主体になり得る。
 この意味で、研究としては公開研究、身体行為としては共同実践と整理することができる。
 この二つが同時に成立しているところに、この形式の特徴がある。


22.「トゥギャザーしようぜ」は何を意味するのか

 ここで、一見すると学術的議論から遠く見える、
 「トゥギャザーしようぜ」という表現を考えてみたい。
 これは単なる親しみやすい掛け声として理解することもできる。しかし、ここまでの議論に照らせば、この言葉は一つの教授観を象徴している。
 「私が教えるから、あなたは覚えなさい」ではない。「私はこれをやっている。あなたも一緒にやってみよう」である。
 前者では、知識の所有者と受容者が分かれる。後者では、経験量の差を保持したまま、双方が行為主体となる。
 したがって、「一緒にやる」という言葉には、身体知を一方向的に受け渡されるものとしてではなく、自ら実践することによって生成されるものとして捉える思想が含まれている。
 この意味で、「トゥギャザーしようぜ」は単なるキャッチコピーではない。
 身体教育における主体関係を示す、実践的な宣言として読むことができる。


23.「教える」の中心には教師がいる

 「教える」という構造では、中心に教師がいる。
 教師が説明する。教師が正解を示す。教師が評価する。勿論、この構造が必要な教育場面は多数存在する。
 しかし身体実践では、最終的に教師の身体を参加者へ移植することはできない。参加者が動かすことのできる身体は、自らの身体だけだからである。
 したがって身体教育の中心に本来置かれるべきものは、教師そのものではなく、実践されている身体現象ではないだろうか。
 教師もその現象を見る。参加者もその現象を見る。経験量も観察精度も異なるが、双方が同じ身体現象へ向かう。
 すると、教師―学習者という関係のさらに奥に、実践者―身体現象―実践者という構造が見えてくる。


24.身体そのものを中心に置く

 この構造では、教師が絶対的な正解の所有者になる必要がない。
 重要なのは、「私は正しい」ではなく、「身体では実際に何が起きているのか」である。
 指導者自身の従来の説明と、現在観察される身体現象が一致しなければ、説明の方を再検討することもできる。
 ここには、身体研究における重要な態度がある。
 理論に身体を合わせるのではない。身体を観察し、その身体に合わせて理論と言葉を更新する。
 したがって、中心にあるのは教師の権威ではない。理論そのものでもない。現在進行形で生起している身体現象である。


25.「教えているのではない。やっている。」

 以上を踏まえると、「教えているのではない。やっている。」という言葉の意味が明確になる。
 これは、教授行為そのものを否定する言葉ではない。
 実際には説明も行う。実演も行う。質問にも答える。参加者の動きについて助言することもある。
 したがって、外形的には明らかに教育的行為を含んでいる。しかし、その行為主体自身の認識において中心にあるのは、「私は教師として完成した知識を渡している」という意識ではない。
 まず、自分がやっている。自ら身体を動かす。観察する。発見する。言葉にする。そして、それを共有する。
 だから、「教える」は結果として生じることはあっても、活動の第一義ではない。第一義にあるのは、実践することなのである。


26.「やっている者」の言葉

 この違いは、言葉の性質にも現れる。
 過去に経験したことを説明する言葉と、いま自ら行いながら生まれてくる言葉は、同じ内容を扱っていても異なる性質を持ち得る。
 後者では、身体運動と言語化との時間的距離が極めて短い。動いた直後に語る。場合によっては動きながら語る。そこで生じた違和感も、その場で修正される。
 したがって、その言葉は、身体から切り離された説明ではなく、身体実践に随伴して生成される言葉となる。
 これを本稿では、現在進行形の身体言語と呼ぶことができる。


27.現在進行形の身体言語

 現在進行形の身体言語とは、単に実況中継を意味するのではない。
 「いま右脚を上げています」と外形を説明するだけではない。問題となるのは、その外形を成立させている身体内部の構造関係を、実践と同時に観察し、言語へ変換することである。
 したがって、外から何が見えるかだけではなく、どの構造が動いたのか。何と何の関係が変わったのか。どの運動を意図的に行わなかったのか。何が結果として生じたのかまでが言語化の対象になる。
 ここに、単なる動作説明と身体研究としての言語化との差異がある。


28.実践と言語の循環

 以上の関係をまとめれば、體現 → 観察 → 分析 → 言語化 → 傳達 → 実践 → 反応 → 再観察 → 再分析 → 再體現という循環になる。
 この循環には、最終地点がない。再體現によって新しい現象が発見されれば、再び観察が始まるからである。
 したがって身体研究とは、一度正解へ到達して終了する直線的過程ではなく、身体と言葉の間を往還し続ける循環的過程として捉えることができる。
 そして講座という場は、その循環が他者の前で開かれる場所となる。


29.身体教育から身体研究へ

 この観点に立てば、身体教育と身体研究の境界も再検討する必要がある。
 従来、研究によって知識を作り、教育によってその知識を伝える、という順序が想定されやすい。
 即ち、研究 → 知識 → 教育である。しかし現在進行形の公開研究では、教育的場面そのものが、新しい観察を生む。参加者の反応が問いを生む。問いが再実践を生む。再実践が新しい言葉を生む。
 したがって、研究 → 教育だけではなく、研究 ⇄ 実践 ⇄ 共有という循環が成立する。ここでは教育と研究は完全には分離できない。


30.結論――身体は、現在進行形で研究される

 本稿では、身体技法の教授を、完成済みの知識を教師から学習者へ伝達する行為としてのみ捉えることの限界を検討した。
 身体は静止した教材ではない。
 身体は、その瞬間ごとに動き、環境と関係し、変化し続けている。
 したがって身体を研究するということは、過去に理解した身体を説明することだけではない。いま、この瞬間に存在する身体を見ることでもある。
 自らやる。観察する。発見する。言葉にする。共有する。他者がやる。反応が返る。もう一度、自らやる。この循環において、知識は講座以前に完全に完成しているのではない。知識そのものが、身体実践の中で現在進行形に生成される。
 したがって、このような場を最も簡潔に表現するならば、共同実践としての公開研究と呼ぶことができる。
 そこでは、「教える者」と「教えられる者」という固定的な二分法だけではなく、「先にやっている者」と「共にやる者」という関係が成立する。
 両者の専門性は同一ではない。経験量も技量も異なる。しかし、双方ともに身体を動かし、身体現象へ向き合う実践主体である。
 そして、その中心に置かれるのは、教師の権威でも、完成された理論でもない。現在、この身に何が起きているのかという問いである。
 故に、この実践の核心を表す言葉は、「私は、身体を教えている。」ではない。
 むしろ、「私は、身体をやっている。」である。そして、その「やっている」現場を他者へ開き、「一緒にやろう。」と呼びかける。
 身体を教えるのではない。身体を共に行い、共に観察し、その場で生まれたものを言葉として共有する。
 その意味において身体研究とは、完成された知識を過去から現在へ運ぶ営みだけではない。現在の身体から、現在の言葉を生み出し続ける営みなのである。

身躰構造學研究所
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