「仙腸関節は動くのか」という問いそのものが間違っている
―可動性から「互動」へ。仙骨・寛骨の構造関係から仙腸関節を再考する

要旨

 「仙腸関節は動くのか、動かないのか」。仙腸関節をめぐる議論では、しばしばこの問いが立てられる。
 そして、「仙腸関節は動かない」「いや、僅かに動く」「数mm程度の微細な運動が存在する」といった形で、その可動性の有無や量が論じられてきた。
 しかし、身躰構造學の立場から考えるならば、この議論には、それ以前に検討すべき問題が存在する。
 それは、そもそも「仙腸関節が動く」という表現は、何を意味しているのかという問題である。
 関節それ自体を一個の運動主体として考えるならば、仙腸関節は動かない。
 動くのは、仙骨であり、寛骨である。
 そして重要なのは、それぞれの骨を独立した運動体として捉えることでもない。
 仙骨が運動する時、寛骨との関係はどう変化するのか。寛骨が運動する時、仙骨はどのように応答するのか。
 即ち問われるべきなのは、関節そのものの「可動性」ではなく、仙骨と寛骨の「互動」である。
 本稿では、「仙腸関節は動くのか」という従来の問いを再検討し、関節中心の身体観から骨格相互の運動関係を中心とする身体観への転換を試みる。

キーワード: 仙腸関節、仙骨、寛骨、骨盤、互動、身躰構造學、関節運動、可動性、身体構造、骨格運動


1.「仙腸関節は動くのか」という問い

 仙腸関節について語られる際、頻繁に問題となるのが、「仙腸関節は動くのか」という問いである。
 一方では、仙腸関節は強固な靱帯によって支持され、可動性が極めて小さい関節であると説明される。
 他方では、完全に不動なのではなく、ニューテーション、カウンターニューテーション等として表現される微細な運動が存在すると説明される。
 その結果、議論はしばしば、動く/動かない、或いは、何mm動くのかという問題へ収束する。
 しかし、この問いには一つの前提が潜んでいる。    
 それは、「仙腸関節」というもの自体が運動主体であるかのように扱われていることである。身躰構造學では、まずこの前提そのものを問い直す。


2.仙腸関節そのものは動かない

 身躰構造學の立場からは、次のように整理する。
 仙腸関節は動かない。動くのは、仙骨であり、寛骨である。
 ここでいう「仙腸関節は動かない」とは、仙骨と寛骨の間に相対的な位置変化が一切生じないという意味ではない。むしろ、その相対運動こそが問題となる。
 ここで否定しているのは、「関節そのもの」を一個の物体のように扱い、それ自体が運動すると表現することである。
 仙腸関節とは、仙骨と寛骨との間に形成される関節である。
 したがって、そこで観察される運動現象を厳密に考えるならば、「仙腸関節が動いた」のではなく、仙骨と寛骨との位置関係が変化したのである。
 この区別は、一見すると単なる言葉遣いの問題に見える。しかし、実際には身体運動をどの単位で理解するかという、身体観そのものに関わる問題である。


3.「関節が動く」という日常表現

 同様の問題は仙腸関節だけに存在するものではない。我々は日常的に、「股関節を動かす」「肩関節を動かす」「膝関節を曲げる」「仙腸関節が動く」と表現する。コミュニケーション上、このような表現が直ちに誤りであるわけではない。しかし、身体運動を構造的に研究する場合には、より精確な区別が必要になる。
 例えば股関節であれば、大腿骨と寛骨が存在する。膝関節であれば、大腿骨、脛骨等が存在する。仙腸関節であれば、仙骨と寛骨が存在する。
 つまり、身体運動として実際に位置や方向を変化させるのは、骨である。関節とは、その骨と骨との関係が成立する場所である。
 したがって、関節運動を理解するためには、関節名だけを見るのではなく、それを構成する骨がどのように運動しているのかを見なければならない。


4.「何mm動くか」だけでは構造は分からない

 仙腸関節については、その可動域が非常に小さいことから、「数mm動く」「数度回旋する」といった量的説明が注目されやすい。勿論、運動量を計測することには意味がある。
 しかし、運動量を知ることと、運動構造を理解することは同じではない。
 例えば、「仙骨が3mm動いた」という情報が得られたとする。しかし、それだけでは、その時寛骨はどうなっていたのか。左右の寛骨は同じ運動をしていたのか。反対方向へ運動していたのか。脊柱はどう応答していたのか。大腿骨との関係はどう変化したのか。身体全体として、その運動がどのように成立していたのかということまでは分からない。
 つまり、「どれだけ動いたか」と「どのように動いたか」は別問題なのである。身躰構造學が問題とするのは、後者である。


5.可動性から「互動」へ

 そこで身躰構造學では、可動性だけではなく、互動という概念から身体運動を捉える。
 互動とは、単に二つの部位が同時に動くことではない。一方の運動が他方との関係の中で成立し、他方の運動もまた一方との関係の中で成立するという、身体各部の相互的な運動関係を指す。
 仙腸関節をこの観点から考えるならば、「仙腸関節が動く」という表現から、「仙骨と寛骨がどのように互動するのか」という問いへ移行する。この問いの転換によって、研究対象そのものが変わる。
 関節の可動量を測ることから、骨と骨との運動関係を観察することへと視点が移るのである。


6.仙骨だけを見ても仙骨運動は分からない

 仙骨の運動を考える際、仙骨だけを観察すればよいわけではない。
 なぜなら、仙骨は単独で身体空間に浮いているわけではないからである。左右には寛骨がある。上方には脊柱が連なる。さらに寛骨を介して大腿骨との関係が生じる。
 つまり、仙骨の運動とは常に、脊柱との関係。
寛骨との関係。下肢との関係。そして重力や支持面との関係。これらの中で成立する。
 したがって、仙骨の運動を理解するためには、仙骨以外を見なければならない。これは一見矛盾するようであるが、構造を考える上では重要である。
 ある骨の運動とは、その骨単独の問題ではなく、周囲との関係変化として初めて意味をもつからである。


7.寛骨もまた単独では動かない

 同様に、寛骨についても、「寛骨が前傾した」「寛骨が後傾した」という記述だけでは不十分である。何に対して前傾したのか。その時仙骨はどうなっているのか。大腿骨はどうなっているのか。左右の寛骨は同じ状態なのか。それとも異なるのか。ここまで見なければ、身体構造としての運動は分からない。
 身躰構造學では、骨の運動を、他の骨から切り離して理解しない。仙骨と寛骨。寛骨と大腿骨。仙骨と脊柱。それらが相互に関係しながら、一つの身体運動を成立させている。


8.ニューテーションという言葉をどう考えるか

 仙腸関節運動では、ニューテーション、カウンターニューテーションという用語が使用される。これらの概念そのものを否定する必要はない。
 しかし重要なのは、「何が、何に対して運動しているのか」を曖昧にしないことである。
 「仙腸関節がニューテーションする」という表現だけでは、運動主体が不明確になる。仙骨を基準とするのか。寛骨を基準とするのか。或いは両者の相対的運動を記述しているのか。この区別を明確にする必要がある。
 身躰構造學では、運動名称を先に置いて身体を見るのではなく、実際にどの骨が、どの骨との関係において、どの方向へ運動しているのかを先に観察する。名称は、その後でよい。


9.左右差を見る前に「何の左右差か」を問う

 臨床では、「仙腸関節の左右差」という表現も頻繁に用いられる。
 しかし、この言葉も慎重に扱う必要がある。左右差とは何の左右差なのか。仙骨に対する左右寛骨の位置なのか。左右寛骨の運動量なのか。大腿骨との関係なのか。支持条件なのか。単に外形的な骨盤の高さが異なるということなのか。これらはすべて別の問題である。
 したがって、「左右差がある」というだけでは、身体構造を説明したことにはならない。
 さらに、左右差が存在することと、その左右差が疼痛の原因であることも、当然ながら同義ではない。観察された現象と原因を混同しないことも、身体研究には必要である。


10.局所から全身へ

 仙腸関節を研究する時、仙腸関節だけを見続けると、かえって仙腸関節が見えなくなる可能性がある。
 仙骨は脊柱の延長上に存在する。寛骨は大腿骨との関係をもつ。そして身体は立ち、坐り、歩き、走り、外力を受ける。
 つまり、仙骨と寛骨の運動は、全身運動の一部として成立している。
 歩行中に仙骨と寛骨はどう関係するのか。片脚支持ではどうなるのか。坐位ではどうなるのか。立ち上がる時にはどうなるのか。脊柱が運動した時、骨盤はどう応答するのか。大腿骨が運動した時、寛骨はどう応答し、さらに仙骨との関係はどう変化するのか。
 このように研究対象を広げていくことで、「仙腸関節の可動性」という局所的問題は、全身における骨格互動の問題へと変わる。


11.関節中心の身体観から、骨格互動の身体観へ

 近代的な身体運動の説明では、肩関節、股関節、膝関節、仙腸関節というように、関節を単位として運動を分類することが多い。これは身体を整理し、記述する上で非常に便利である。
 しかし便利な分類と、身体で実際に起きている現象とは必ずしも同一ではない。
 身体の中では、「股関節だけ」「仙腸関節だけ」「腰椎だけ」が独立して運動しているわけではない。
 一つの骨の運動は、別の骨との関係を変える。その変化は更に別の骨へ波及する。
 身躰構造學では、この連鎖を、単なる「連動」としてではなく、互いの運動が互いを成立させる「互動」として捉える。
 したがって身体とは、独立した関節を寄せ集めたものではなく、骨と骨との関係が絶えず変化し続ける一つの構造体として理解される。


12.「関節を動かす」から「骨を互動させる」へ

 この考え方は、身体操作の方法にも影響する。
 例えば、「仙腸関節を動かして下さい」と言われても、実際には何を操作すればよいのか曖昧である。
 しかし、仙骨をどう運動させるのか。寛骨をどう運動させるのか。そして、両者をどのように互動させるのかと考えれば、運動対象は具体化される。
 つまり、関節名による身体操作から、骨格による身体操作へ。そしてさらに、個々の骨の操作から、骨と骨との互動操作へ。この転換こそが、身躰構造學における重要な身体観の一つである。


13.「仙腸関節は動くのか」という議論に終止符を打つ前に

 「仙腸関節は動くのか、動かないのか」。この問いに対して、「動く。ただし数mmである」と答えることで、議論に終止符が打たれたように見えるかもしれない。
 しかし、身躰構造學から見れば、そこからが問いの始まりである。何が動いたのか。仙骨なのか。寛骨なのか。両方なのか。どちらを基準として観察したのか。その運動は左右でどう異なるのか。脊柱とはどう関係しているのか。大腿骨とはどう関係しているのか。そして、その運動は全身の中で、どのような互動として成立しているのか。
 「何mm動くか」を知っただけでは、この問いには答えられない。


結語

仙腸関節を観るな。仙骨と寛骨の関係を観よ。

 仙腸関節は動くのか。動かないのか。
 身躰構造學の立場から言えば、この問いそのものを、一度解体する必要がある。
 仙腸関節そのものは動かない。動くのは、仙骨であり、寛骨である。勿論これは、仙骨と寛骨の間に相対的な運動が存在しないという意味ではない。むしろ、その相対的な運動関係こそが重要なのである。
 したがって問うべきは、「仙腸関節は何mm動くのか」だけではない。仙骨がどのように動き、寛骨がどのように動き、両者がどのように互動しているのか。ここを観なければならない。
 可動量を測ることと、構造を理解することは同じではない。
 一つの骨だけを取り出して観察することと、骨と骨との関係を観ることも同じではない。
 身体は、独立した部品がそれぞれ勝手に運動しているものではない。一つが動けば、他が応じる。他が動けば、また一つが応じる。その相互的な運動関係の中で、全身の運動は成立している。身躰構造學では、この関係を、「互動」として捉える。
 故に、仙腸関節を理解するために本当に必要なのは、「動くか、動かないか」という二者択一ではない。また、「何mm動くか」という量だけでもない。
 何が、何に対して、どのように動くのか。そして、その運動によって、他の骨はどのように互動するのか。この問いへ進むことである。
 関節を運動主体として見る身体観から、骨と骨との互動として見る身体観へ。「仙腸関節は動くのか」という問いを超えた先に、仙骨と寛骨の構造的関係そのものを研究する新たな視点が開かれる。
 仙腸関節を観るな。仙骨を観よ。寛骨を観よ。そして、その二つの骨の「互動」を観よ。それが、身躰構造學から仙腸関節を再考するための出発点なのである。

身躰構造學研究所
フィジカリストOuJi

 

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