日本立腰

 
立腰体操・立腰整体で日本を元気に!
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「タテゴシ」で、日本を元氣に!
2022/8/12

身体を稽古すること

 
整体とは身体を本来の状態に戻す営みです。
 
武術とは、武という形式を通じて、
産まれて以来身についた身体中のクセを
取り除き、身体が本来持っている
自然のチカラを呼び覚ます営みです。
 
それを直心影流剣術の
男谷精一郎(信友)は、
 
「後来習態の容形を除き、
 本来精妙の恒体に復す」
 
と表現しました。
 
「人は生まれてから今日まで
  知らず知らずに身についたクセがある。
  そのクセを取り除くことで、
  本来自然に備わっている能力を
  引き出すことが出来る。」
 
という意味です。
 
人は産まれた時が完璧で、成長の過程で
あらゆるクセを身につけます。
 
型稽古や身体の動きを通じて、身体中のクセを
禊いでいく営みこそが武術なんですね。
 
 
本来の状態を復活させる
 
という意味において、
整体と武術は同じです。
 
目指すべきところは一緒なんですね。
 
武医同源という言葉があって、
武術と医術は同じ源です。
 
武術は人を殺傷する技術。
だから、そこに人を治す技術が生まれました。
 
武術と医術は、発生源が同じで、
故に真の武術家は医術家であり、
身体の使い方も両者は全く同じです。
 
関節技は武術として使えば
骨折や脱臼をさせる攻撃技ですが、
 
医術として使えば
整骨・整体の術技と化します。
 
だから、武を極める道は
整体を極める道であり、
整体を極める道は、武を極める道となります。
 
僕は武術と整体の両方をやってきたので、
両者が同じであることがよく分かります。
 
今、整体師であり、トレーナーでもある
フィジカリストを育成していますが、
目指すところは同じ。
 
 
直心影流剣術でいう
 
「後来習態の容形を除き、
 本来精妙の恒体に復す」
 
です。
 
 
つまり、何か新しい技術を足し算して
付け足していくのが武術の稽古ではなく、
 
身を削ぎ=禊ぎ
己を磨いていくのが武術の稽古です。
 
磨いて研いて、削って削いで、ピカピカに
光らせ輝かせるのが武術本来の稽古。
 
「自分磨き」という言葉が流行っていますが、
武術は究極の自分研きの方法です。
 
自分を研き、身を削いでいくという発想は、
非常に東洋的で、日本らしい発想です。
 
身を削いでいく。
クセを取り除いていく。
 
何を削ぎ、クセとは何なのか?
 
整体および武術では、
それを「身体中の凝り」と紐解きます。
 
生まれて以来、知らず知らずのうちに
身についたクセ。
 
それが心のクセであれ、生き方のクセであれ、
それが身体には凝りや歪みとなって表れている
と整体武術では考えます。
 
例えば、親に厳しく育てられた。
 
その厳しさに耐えるために、
筋肉に力を入れ続け、
それが凝りや歪みとなって定着します。
 
自分の全身と対話し、
身体中の凝りや歪みを取り除いて
緩めていく作業は、
 
そんな自分の心のクセや
生き方のクセに気づいていく
プロセスでもあります
 
それを突き詰めていったら、
胎児の時の記憶、前世の記憶、
ビッグバン以来の素粒子の記憶・・・へと、
理論的には行き着きます。
 
身を削いでいく武術の稽古は、
本来の自分、自分の本性へと還る営みであり、
 
人間とは何か、生命とは何かを
追求する営みと言えます。
 
それを今、「体操」「整体」「身体開発」
というカタチで皆さんにお伝えしています。
 
そんな世界観を、東洋では「道」と言います。
 
道とは、「身血」
 
身に血を流し、血を巡らせることで、
全身の凝りを解きほぐし、
 
また、全身の凝りを解きほぐすことで
身に血を巡らせることで、
 
自分の本性へと還ることを、
「道」と表現します
 
 
「研く」とは、身学であり、身楽
 
生きる道を身体に学び、
身体を楽にしていくこと。
 
凝りを緩め、血を巡らせて、
身を楽にしていくことが「研く」ということ
 
これが東洋の修行観です。
 
単純に二極化させられるものではないですが、
 
西洋は、削ぐというより
「付け足す」という発想で、
 
東洋が負荷を抜いていくのに対し、
西洋は負荷をかけて強くしていく
というやり方です。
 
その先に、「筋力トレーニング」
という発想があります。
 
東洋は脱力を、
西洋は筋力を重視する由縁は、
ここにあります。
 
東洋は、自分を研いていくこと
「稽古」と表現します。
 
日本の古事記や、中国の書経に
「稽古」という言葉が出てきます。
 
稽古とは、
 
「古きを稽(かんがえ)る」
 
ということ。
 
新しい自分になることではなくて、
クセを取り除いて本来の自分を取り戻す
 
そのために気づいていく
というのが「稽古」です。
 
トレーニング、鍛錬、訓練、修行などとは
全く違う意味が、「稽古」にはあります。
 
身体は、鍛錬でもなく、
トレーニングでもなく、
修行でも苦行でもなく、
 
「稽古」してこそ、真のチカラを
呼び覚ますことができるのです。
 
今、身体のトレーニングや鍛錬、
あるいは修行を教えられる指導者はいても、
 
「身体の稽古」を
稽古させられる指導者
 
が少ない。
 
身体を稽古するという面白さ、
喜びを、1人でも多くの人に伝えたい。
 
by. フィジカリストOuJi
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